
Guillaume Dufay
1397年~1474年
中世音楽からルネサンス音楽へ転換させた、ブルゴーニュ楽派の巨匠。音楽家。
デュファイの生涯
デュファイの生涯は、まだ完全に分かっていないことが多いです。
出身もハッキリしておらず、最も新しい説としては、ブリュッセル近郊のベーアセルで1397年8月5日に生まれたと考えられています。
- 1397年 生まれる
 - 1409年 少年合唱隊で教育を受ける
 - 1414年 カンブレー近郊のサンジェリー教会で働き始める
 - 1418年 本格的な作曲を始める
 - 1428年 司祭となる
 - 1433年 ローマで教皇庁の歌手となる
 - 1474年 11月27日没
 
同世代の著名な作曲家、オケゲム、ビュノワと親交を持ったり、ジョスカン・デ・プレらとも接触があったと考えられています。
デュファイの功績
デュファイは世間ではあまり知られていませんが、音楽の発展に対する貢献度は、あのバッハに匹敵すると言われています。
デュファイが音楽を始める前、下記のヨーロッパの3つの地域で、音楽技術が急激な進化を遂げました。
- フランス イソリズムやシンコペーションといった複雑なリズム技術が発展しました。
 - イタリア つかみやすいメロディ優位の音楽が発展しました。
 - イギリス 3度や6度の和声を使った音楽が生まれました(当時、和声と言えば4度5度でした)。
 
これらは、現在となってはよく見かける技術ですが、15世紀としてはあまりにも画期的な音楽的進化だったんです。
デュファイは、生まれに近いフランス音楽を研究し、青年期にはイタリアの音楽を経験、また百年戦争の休戦期にダンスタブルが伝えたイギリスの音楽に触れることになりました。
偶然にも、この3つの地域で発展した音楽全てを経験することができたのです。
そして、この全ての地域の音楽の良いところを吸収したデュファイは、1つの音楽へとまとめ上げ、当時の特徴である対位法をはじめとするポリフォニー音楽を大きく進化させる音楽をつくりあげました。
この急激な音楽的発展はヨーロッパ全体に大きな影響を与え、「中世音楽時代」から「ルネサンス音楽」時代へ転換する引き金となっていきました。
つまり、デュファイの音楽は1つの時代を変えてしまう程の威力を持っていたんです。
このように、デュファイは15世紀最大の巨匠と言われるほど、大きな功績を残すこととなりました。
デュファイの音楽
作風
デュファイのミサ曲の多くは、循環ミサ曲の形式を取っており、この形式を確立したのがデュファイであると言われています。
また、ブルゴーニュ楽派の作曲家が良く使っていたフォーブルドンも、デュファイが創始であると言う説もあります。
作品
生涯制作した作品で、シャンソン、バラード、ロンドーといった83の世俗作品と、宗教作品(モテット76曲、ミサ曲9曲)と約200曲の作品が残っています。
世俗作品
- 私の顔が青ざめているのは
 - コンスタンチノープル教会の聖母の嘆き
 - さようならわが恋よ、さようならわが歓びよ
 - 年を迎えたこの日
 - 心を込めて、お仕えせねばなりませぬ
 - 早くやっておいで、恋の喜びよ
 - 私はもうかつての私ではない
 - あなたほどのお人を私はまだ見たこともない
 - よい日、よい月、よい年、そして何かよいこと
 - 月は5月、いざ楽しもう、心も軽く
 - さあ、友だちよ、目を覚まそうよ
 - 黄金のように美しく気高い聖母マリアよ
 - さらばラノワのよき酒
 - 美しい人よどんな過ちを犯したのか、この私が
 
ミサ曲
- ミサ「目を覚ましなさい」
 - ミサ「Missa Sancti Anthonii Vienensis」
 - パドヴァの聖アントニウスのミサ曲
 - ミサ「ス・ラ・ファス・エ・パル」
 - ミサ「ロム・アルメ」
 - ミサ「エッチェ・アンチルラ・ドミニ」
 - ミサ「アヴェ・レジーナ・チェロールム」
 - 聖ヤコブのミサ曲
 
モテット
- キリストと共にあるヨハネ
 - 讃えられん、天にいます乙女よ
 - 花の中の花
 - この喜ばしき世界は
 - おお、聖セバスティアヌスよ
 - ばらの花が先頃
 - 忠実な教会の都ローマ
 - 喜べ、ビザンツ帝国の妃
 - めでたし、トスカナ人の花
 - 度量ある人々の称賛を
 - 神の教会の輝ける星
 - 知られたる海の星
 - このフィレンツェの町は
 - バルサムと上品なる蝋が
 - おお、祝福されしセバスティアヌスよ
 - おお、イスパニアの後裔/おお、イスパニアの星
 - おお輝きわたる宝石
 - 誉れある使徒に
 - 人にとって最もよきもの
 
