
1905年の秋、パリの楽譜店に並んだ1冊の新刊スコアの表紙には、西洋の神話でも貴婦人の肖像でもなく、江戸の絵師・葛飾北斎の大波が刷られていました。
ドビュッシーの新作《海》です。
印象主義の名曲には、こんなふうに常識の外からやってきた物語がいくつも隠れています。
この記事では、悪口として生まれた「印象主義」という言葉の出自から、封印された曲、スキャンダルの中で書かれた傑作まで、作曲を仕事にしている筆者の目線で7曲の裏側を掘り下げます。
目次
印象主義音楽とは——「悪口」から始まった革命
印象主義音楽とは、1890年ごろから1910年代にかけてフランスで花開いた、光や水、風といった移ろいやすいものの「印象」を音で描こうとした音楽です。
代表格はドビュッシーとラヴェルのふたりで、くっきりしたメロディで感情を歌い上げるロマン派に対して、こちらは色彩と響きで聴き手を包み込みます。
例えるなら、ロマン派が油絵の肖像画で、印象主義は水彩でにじませた風景画のような音楽なんです。
言葉のルーツは、絵画への皮肉でした
「印象主義」という言葉は、もともと美術の世界で生まれました。
1874年、モネの絵《印象・日の出》を見た批評家が、描きかけのようだとからかう意味を込めて「印象派」と呼んだのが始まりとされています。
音楽でも、この言葉が注目されるきっかけとなったのは似たような場面でした。1887年、ドビュッシーが書いた《春》に対して、輪郭がぼんやりしているという批判めいた評価として使われたのです。
つまり絵でも音楽でも、「印象主義」は最初、褒め言葉ではなかったわけです。
ところが当のドビュッシーたちは、その「ぼんやり」にこそ新しい美を見出し、ヨーロッパ音楽の常識をひっくり返していきます。
悪口がそのまま革命の名前になった、というのがこのジャンルの出発点でした。
本人は「印象主義者」と呼ばれたくなかった
もうひとつ、知っておくと面白い事実があります。
ドビュッシー本人は、自分が「印象主義者」と呼ばれることを認めていませんでした。レッテルを貼られて絵画の添え物のように扱われるのが嫌だったのでしょう。
この記事でも便宜上「印象主義」と呼びますが、本人が嫌がっていた呼び名だということは、頭の片隅に置いて読んでみてください。
ドビュッシーの名曲——音楽を「ルール」から解放した人
ドビュッシーは1862年、パリ近郊の貧しい家庭に生まれました。
恵まれた環境とは言えない少年時代からピアノの才能で這い上がり、1889年のパリ万国博覧会ではアジアの音楽や美術に衝撃を受けて、西洋の伝統にとらわれない道を選びます。
やがて「和音はこう進行すべき」という何百年分の西洋音楽のルールを、響きの美しさを基準に組み替えてしまいました。
《月の光》——詩から生まれた、世界でいちばん静かな名曲
- 作曲:1890〜1905年(ベルガマスク組曲 第3曲)
ピアノ曲として世界的に有名なこの曲は、4曲からなる『ベルガマスク組曲』の3曲目です。組曲の名前は、詩人ヴェルレーヌの「月の光」に登場する「ベルガマスク」という言葉に由来すると考えられています。仮面をつけた人々が踊る幻想的な世界が、音楽の背景にも広がっているんです。
ヴェルレーヌとの、できすぎた縁
ドビュッシーとヴェルレーヌの縁は、実は詩集だけではありません。9歳のドビュッシーに最初の本格的な音楽の手ほどきをしたのは、偶然にも詩人ヴェルレーヌの義母にあたるモテ・ド・フルールヴィル夫人でした。少年時代に鍵盤を教わった家の詩人の言葉が、約20年後に代表作の源になったのだから、人の縁というのは不思議なものです。
着手から出版まで15年かかっているのも、この曲らしいところです。若書きの素材を、名声を得たあとのドビュッシーが磨き直して世に出しました。冒頭、月光が差し込むようにそっと置かれる和音の静けさは、磨き抜かれた末のものなんです。
《牧神の午後への前奏曲》——「現代音楽はここから始まった」
- 初演:1894年12月22日(パリ)
詩人マラルメの詩「牧神の午後」をもとに、夏の昼下がり、半人半獣の牧神がまどろみと夢想を行き来するさまを描いた約10分の管弦楽曲です。冒頭、フルートがたったひとりで吹く気だるい旋律は、どの調(ドレミの出発点)ともつかない宙づりの音階で書かれていて、聴き手は最初の数秒で、時間の感覚があいまいな真夏の午後へ連れ込まれます。
きっかけは、20歳年上の詩人からの依頼
この曲は、ドビュッシーの歌曲に感銘を受けたマラルメが、自分の詩を舞台にかける際の音楽を若いドビュッシーに任せたいと考えたことから動き出しました。当初は前奏曲・間奏曲・終曲の3部が構想されたものの、舞台の計画は消え、最終的に残ったのがこの前奏曲だけだったんです。初演はパリのサル・ダルクールで行われ、曲の最後にはアンティーク・シンバルという小さな金属打楽器がかすかに鳴り、聴き手は夢見心地のまま置き去りにされます。
この曲はしばしば「現代音楽の最初の作品」と呼ばれ、のちの大作曲家ブーレーズの「牧神の午後とともに近代音楽は目覚めた」という言葉でも知られています。作曲を仕事にしている立場から言わせてもらうと、この冒頭のフルートは本当に恐ろしい発明で、伴奏もリズムも借りずに、音色ひとつで世界を立ち上げてしまっているんですよね。
《海》——表紙は、北斎の波
- 初演:1905年10月15日(パリ)
「海の夜明けから真昼まで」「波の戯れ」「風と海との対話」の3部からなる、ドビュッシー最大の管弦楽曲です。1903年に着手し、1905年3月にはひとまず総譜を書き上げました。その夏にはイギリス海峡を望む保養地イーストボーンに滞在し、出版に向けた仕上げを進めています。刻一刻と表情を変える海を、彼は銅鑼(どら)のような東洋の打楽器まで持ち込んで描き切っています。
スキャンダルのただ中で書かれた海
実はこの曲が書かれた2年間は、ドビュッシーの私生活が炎上していた時期と重なります。彼は妻リリーを捨てて人妻のエマ・バルダックと駆け落ち同然に暮らし始め、残されたリリーは拳銃自殺を図りました(一命は取りとめています)。批評家からは総攻撃を受け、親しい友人たちも離れていくなか、彼はエマとともにイーストボーンの海辺で《海》を仕上げ、初演の月末にはふたりの娘が生まれています。逆風の中で迎えた初演の批評は賛否が割れたと伝えられますが、今ではこの曲こそ、彼の最高傑作に数えられています。
1905年の初版スコアに描かれていたもの
この曲の楽譜の初版表紙には、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、あの大波の絵があしらわれました。ドビュッシーには自作スコアの表紙デザインを自分で選び抜くこだわりがあり、本人が「表紙マニア」と呼ぶほどだったと伝えられています。当時のフランスでは日本美術が大流行していて(ジャポニスムと呼ばれます)、彼の書斎にもこの浪の絵が飾られていたことが写真で分かっています。少年時代から海に憧れ、後年には「船乗りになるつもりだった」と手紙に書いたドビュッシー。西洋の伝統とはまったく違う感性で海を描いた江戸の絵師に、自分の音楽と通じる何かを感じていたのかもしれません。日本で音楽を書いている人間として、この話は何度思い出してもうれしくなります。
ラヴェルの名曲——「音の時計職人」と呼ばれた男
ラヴェルは1875年生まれで、ドビュッシーより13歳年下です。緻密で狂いのない書法から、スイスの時計職人のようだと評されたと伝えられています。にじませるドビュッシーに対して、ラヴェルは一滴もにじまない線で幻想を描くタイプで、同じ印象主義でも質感はまったく違います。
《水の戯れ》——落第生が起こした、ピアノの革命
- 作曲:1901年 公開初演:1902年
噴水の水しぶきや流れをきらめくピアノで描いたこの曲は、ピアノ音楽における印象主義的な書法を大きく発展させた、画期的な作品です。楽譜の冒頭には、詩人レニエの「水にくすぐられて笑う河の神」という一句が掲げられていて、タイトルどおり全編が水の光でできています。下敷きにあるのはリストの《エステ荘の噴水》で、ラヴェル自身ものちに、自分のピアノ書法の新しさはこの曲に始まるという趣旨の言葉を残しました。お披露目もいきなり公開ではなく、まず「アパッシュ」と呼ばれる若い芸術家仲間の集まりで弾かれ、翌1902年に名手ヴィニェスの演奏で世に出ています。
驚かされるのは、書いた本人がこのころ、音楽院の伝統的な評価基準にはなかなか収まらない「問題児」だったことです。ラヴェルは登竜門のローマ大賞に5回挑戦しましたが、最高賞には届きませんでした。最後の1905年には予選で落とされ、その結果が音楽院の院長交代にまでつながる大騒動となりました。審査では評価されなかった26歳が、師フォーレに捧げたこの1曲でピアノの歴史を先へ進めてしまったのですから、コンクールの点数と革新性は別物だという、何よりの証拠だと思います。
《ボレロ》——「この曲には音楽がない」?
- 初演:1928年11月22日(パリ・オペラ座)
ダンサーのイダ・ルビンシュタインの依頼で書かれたバレエ音楽です。小太鼓が刻む同じリズムの上で、2種類のメロディだけが延々と繰り返され、楽器を増やしながら約15分かけて大爆発に至る——最後の2小節を除いて、リズムは一度も変わりません。初演の聴衆には催眠術のような反復に困惑する反応もあったものの、批評家からはただちに絶賛され、曲は世界へ広がっていきました。それでいて作曲者本人は、この曲を「音楽のない17分間の管弦楽」「ありふれた旋律のクレッシェンド」と突き放して表現していたのだから面白いものです。
数字が物語る「世界でいちばん稼いだ曲」
本人の冷めた自己評価をよそに、《ボレロ》は音楽史でも指折りの人気曲になりました。その著作権収入は、長年の累計で約5,000万ユーロに達したとの推計まであります。日本円にすれば数十億円規模。たった2つの旋律を執拗に繰り返す作品が、それだけの価値を生んだのです。その著作権も2016年に消滅し、いまや人類の共有財産です。
でも、作曲家の目で見ると、この曲ほど「音楽しかない」曲もないんです。メロディと和音の変化を封じた代わりに、楽器の組み合わせ、つまり音色の演出だけで15分間クライマックスまで引っ張っていく。どの瞬間にどの楽器を出すかという演出力こそ作曲の本体だと私は考えているので、ボレロは冗談めかした自己評価とは裏腹に、ラヴェルの腕前がいちばん露骨に出た曲だと思っています。
印象主義の「まわり」で生まれた名曲
印象主義のきらめきは、ドビュッシーとラヴェルだけのものではありません。少し外側にいたふたりの曲も聴いてみてください。
サティ《ジムノペディ第1番》——BGMという発想の、ご先祖さま
- 作曲:1888年
ゆっくりした3拍子に、装飾を削ぎ落とした旋律がぽつりぽつりと浮かぶピアノ曲です。曲名は古代ギリシャ・スパルタの祭典「ジムノペディア」に由来していて、書いた本人は自分の職業を「ジムノペディスト」と名乗ってみせる人でした。そのサティは、パリ音楽院で才能なしと烙印を押されて除籍になり、モンマルトルのカフェでピアノを弾いて暮らしていた変わり者だったんです。ところがこの簡素さが時代を半世紀以上先取りしていて、今では環境音楽(アンビエント)の先駆けと位置づけられています。
ドビュッシーはこの無名の友人を世に出そうと、ジムノペディの第1番と第3番をオーケストラ用に編曲しました。のちに「聴かせるため」ではなく「流しておくため」の音楽という発想を打ち出したのもサティで、店内BGMやゲームの環境音まで続く道の入り口に、この曲は立っています。
サン=サーンス《水族館》——作曲者が、死ぬまで封印した曲
- 作曲:1886年 全曲楽譜出版:1922年(作曲者の死後)
組曲『動物の謝肉祭』の第7曲で、グラスハーモニカ(ガラスの器を擦って鳴らす楽器)のきらめきが、水槽を漂う魚と揺れる光をそのまま音にしたような1曲です。この組曲が書かれたのは1886年2月、散々な結果に終わったドイツ演奏旅行の骨休めに、オーストリアの小さな村でのことでした。厳密にはサン=サーンスは印象主義の作曲家ではないのですが、印象主義が本格化する前に、ここまで「映像の見える音楽」を書いていたことには驚くしかありません。
本人は、このふざけた組曲が「真面目な作曲家」としての評判を傷つけることを恐れ、生前は主に身内での演奏にとどめ、全曲の楽譜出版も許しませんでした(唯一「白鳥」だけは例外です)。内輪の演奏会にはリストが客として来たという記録や、奏者が動物の仮面をつけて演奏した回があったという話まで残っています。全曲の楽譜が出版されたのは死の翌年、1922年のことで、蓋を開けてみれば組曲は大喝采で迎えられ、今では彼の代表作です。作曲者の自己評価と世間の評価ほど、あてにならないものはありません。
作曲家の目から見た印象主義——和音を「並べて動かす」魔法
印象主義のサウンドの正体をひとつだけ挙げるなら、平行和音です。従来のルールでは和音ごとに決められた動き方があったのに、ドビュッシーたちは同じ形の和音を、そのまま平行にスライドさせました。絵の具を1色ずつ混ぜる代わりに、色を帯のまま動かすような書き方で、これをやると音がふわりと浮き、調性(曲の重力のようなもの)があいまいになります。
実は私自身、調性をぼかしたくて十二音技法という別の方法に挑み、見事に失敗したことがあります。12音を全部使おうとした結果、曲は細かな転調を繰り返すだけになったのですが、その転調の連なりがいつのまにか平行和音のような響きになり、今の自分の音楽の礎になりました。印象主義の作曲家たちが100年以上前に開いた扉を、遠回りして自分の足でくぐり直したようなもので、この響きが現代のゲーム音楽や映像音楽の「幻想的な場面」で今も現役なのは、彼らの発明がそれだけ本質的だったからだと思います。
まとめ:ぼんやりしているのではなく、にじませている
印象主義の音楽は、初めて聴くと「つかみどころがない」と感じるかもしれません。
それは欠点ではなく狙いで、輪郭をあえてにじませることで、光や水のように形のないものを音にしているんです。
まずは《月の光》か《ジムノペディ》あたりの静かな曲から入り、慣れてきたら《海》や《ボレロ》の大画面に進むのがおすすめです。
悪口として生まれた「印象主義」という名前が、どれほど美しい革命の名前だったか、きっと耳で納得できます。
