
「古典派音楽は1750年ごろから1820年ごろまで、代表はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン」と、音楽の教科書にはたいてい書いてあります。
テスト前に丸暗記した人も多いと思いますが、当の3人は自分のことを「古典派」だと思って曲を書いていたわけではありません。
それどころか、古典派の代名詞のように言われる「ソナタ形式」という言葉さえ、彼らは一度も耳にしないまま世を去っているんです。
では、名前がつく前のあの時代に、実際には何が起きていたのでしょうか。
この記事では、契約書や手紙、楽譜の表紙といった当時の記録を手がかりにして、教科書の3行では見えてこない古典派の素顔をたどっていきます。
目次
古典派音楽が生まれた時代背景——主役は王から市民へ
産業革命と啓蒙思想が「個人」を目覚めさせた

3人が生きた18世紀後半は、社会がひっくり返るような時代でした。
イギリスで産業革命が始まると、商売や工場の経営で力をつけた中産階級の市民が、急速に発言力を持つようになります。
この市民たちが支えたのが「啓蒙思想」で、宗教的なカンや言い伝えに頼るのをやめ、理性にもとづいて自分の頭で考えようという主張でした。
神や王に押さえ込まれてきた「個人」の大切さに、世の中が気づきはじめたわけです。
フランス革命で、音楽の聴き手が入れかわった
そして1789年、フランス革命が起こります。
当時のフランスは聖職者がおよそ14万人、貴族が40万人、平民が2600万人という社会で、ごくわずかな特権階級が税を免れ、その負担を平民が背負っていました。
「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」という有名なせりふは、実際に王妃が口にしたものではないとされていますが、そんな言葉が語り継がれるほど、王族と民衆の暮らしはかけ離れていたのです。

こうした流れのなかで教会や王の力が弱まると、それまで教会のミサや貴族のサロンのものだった音楽にも、市民がお金を払って近づけるようになりました。
「神への捧げもの」「王をたたえるもの」という色合いは薄れ、オペラの世界でも、庶民にわかりやすい喜劇的な作品が人気を集めていきます。
古典派の音楽は、この新しい聴き手に向けて書かれた音楽でした。
「古典派」は後の時代がつけた名前だった
1750年と1820年という区切りの正体
では、その古典派の時代は、いつからいつまでを指すのでしょうか。
始まりの「1750年」は、バロック音楽を代表するバッハが亡くなった年です。
ただ、その年を境に音楽がいっせいに切り替わったわけではなく、新しいスタイルの曲はバッハが生きているうちから書かれていましたし、古いスタイルの曲もしばらく作られ続けました。
覚えやすい目印として、大作曲家の没年が選ばれたにすぎないんですね。
終わりの時期も本によってばらばらで、辞典には「1770年から1830年」をせまい意味での古典派とする説明もあります。
年号を信じ込むより、18世紀のなかばから19世紀のはじめにかけて、ゆるやかに移り変わったととらえるほうが実際の姿に近いでしょう。
3人をまとめる呼び名は、ずいぶん遅れて生まれた

「古典派」という呼び方は、同じころのドイツ文学で活躍したゲーテたちの「古典主義」になぞらえてつけられたものだと、音楽辞典では説明されています。
古典(クラシック)とは、もともと「お手本にすべき一流のもの」という意味の言葉です。
つまりこの名前は、後の人たちが3人の音楽を「お手本」として仰ぎ見たときに、はじめて成り立つ呼び名でした。
「ウィーン楽派」という言い方が初めて使われたのは1834年で、オーストリアの音楽学者キーゼヴェッターによるものとされています。
しかも、このとき数えられていたのはハイドンとモーツァルトの2人だけでした。
ベートーヴェンが亡くなって7年がたっても、まだ「古典派の3人組」は出来上がっていなかったことになります。
音楽の中身はどう変わったのか
主役のメロディに伴奏がつく、今と同じ形へ

呼び名が後づけだったとしても、音楽の中身がこの時代に大きく変わったことは確かです。
バロック時代の音楽は、いくつもの旋律が同時に重なり合う作りが多く、その足もとではチェンバロなどが低音を休みなく弾き続けて、曲の進み方を決めていました。
この土台を「通奏低音」と呼び、上に乗るメロディは、いわば低音が敷いたレールの上を走る列車のようなものでした。
そのため、バロックの曲にも耳に残るメロディはたくさんあるのに、伴奏を外してメロディだけを歌ってみると、どこかぎこちなく、気持ちよく歌いきれない曲が少なくありません。
主役のはずなのに、レールから外れる自由がないんですね。
18世紀のなかばになると通奏低音はすたれていき、1本のメロディをはっきり主役に立てて、ほかの楽器は伴奏にまわるスタイルが好まれるようになります。
これを「ホモフォニー」と呼び、王や教会から解き放たれていく時代の空気が、メロディをレールから自由にしたのかもしれません。
ボーカルが歌い、バンドが支えるという今のポップスの形は、じつはこのとき出来上がったものなんです。
200年以上前の曲なのに初めてでも口ずさめてしまうのは、私たちの耳がいまだに古典派の作った土俵の上にいるからだと言えます。

軽やかさを求めた「ギャラント様式」
この流れの入り口にあったのが「ギャラント様式」です。
ギャラントとはフランス語で「優雅な、しゃれた」という意味で、重々しく複雑なバロックの響きに対して、素朴で親しみやすく、すぐ口ずさめるメロディを大切にしました。
音楽を聴く人が王侯貴族や教会だけでなく裕福な市民にも広がっていった時代ですから、予習なしで楽しめる音楽が歓迎されたわけです。
1737年には批評家のシャイベが、バッハの音楽は大げさで込み入りすぎていると雑誌で批判しているほどで、あの大バッハでさえ「時代遅れ」と言われてしまうのですから、流行というのは残酷なものですね。
こうした新しい流れは、バッハがまだ生きていたころからヨーロッパ各地で芽を出していて、この時期を「前古典派」と呼びます。
フランスのギャラント様式、イタリアの最先端の音楽、このあと紹介するドイツのマンハイム楽派のオーケストラの技などを、ハイドンとモーツァルトが取り入れてまとめ、ベートーヴェンがさらに押し進めました。これが古典派音楽の大きな流れです。
ソナタ形式には、まだ名前がなかった
古典派といえば必ず出てくるのが「ソナタ形式」です。
これは、ふたつの主題(曲の顔になるメロディ)を示し、それを展開させ、最後にもう一度もどってくるという、曲の組み立て方のことを指します。
ところが、この「ソナタ形式」という用語は18世紀には存在していませんでした。

1793年に理論家コッホが当時の曲の作りをくわしく書き残していますが、彼が注目したのは主題ではなく、調の移り変わりと区切り方のほうです。
今の教科書にあるような説明は、1826年のライヒャ、1845年のマルクス、1848年のチェルニーといった人たちが後からまとめたもので、用語そのものはマルクスが言い出したのではないかとされています。
ハイドンやモーツァルトは「ソナタ形式というルール」に従って作曲したのではなく、彼らが書いた曲を後の人が調べて、共通する型に名前をつけたということです。
彼らの曲に「型どおりではない」場面がいくらでも出てくるのは当たり前で、私はそこにこそ古典派を聴く楽しさがあると感じています。
交響曲・弦楽四重奏・協奏曲が主役になった

ソナタ形式は、1曲のなかの組み立て方の話でした。
これに対して、どんな楽器の組み合わせで、いくつの楽章(ひと区切りの曲)を並べるかという「曲の種類」も、この時代に今の形が固まっていきます。
それまで音楽の中心は歌のつく声楽曲でしたが、古典派では楽器だけで演奏する器楽曲が主役の座につきました。
代表が、オーケストラのための大きな作品「交響曲」で、多くは4つの楽章でできています。
弦楽器4人だけで演奏する「弦楽四重奏曲」、ピアノなどの独奏者がオーケストラと掛け合う「協奏曲」も、この時代に花開きました。
交響曲を106曲も書いたハイドンが「交響曲の父」と呼ばれるのは、この形を何十年もかけて育てた人だからです。
「将軍ばかりの軍隊」と呼ばれたオーケストラ
曲の作りと並んで変わったのが、オーケストラの鳴らし方でした。
その実験場になったのがドイツのマンハイム宮廷の楽団で、だんだん音を大きくしていく「クレッシェンド」を全員でそろえて聴かせるなど、当時としては新しい効果を次々に生み出しています。
この楽団を聴いたイギリスの音楽史家バーニーは、「将軍ばかりで編成された軍隊」と書き残しました。
一人ひとりが指揮官をつとめられるほどの名手なのに、全体では一糸乱れず動くという驚きが、このたとえに込められています。
交響曲というジャンルが育っていった背景には、こうした腕利きの集団がいたんですね。
バッハも試したピアノは、辛口の評価から始まった

楽器の世界でも主役の交代が起きました。
弦をはじいて音を出すチェンバロに代わって、ハンマーで弦をたたき、指の力で音の強弱をつけられるピアノが広まっていったのです。
初期のピアノについては、バッハにまつわる記録が残っています。
弟子のアグリーコラによると、楽器職人ジルバーマンのピアノを試したバッハは「高い音が弱く、鍵盤が重くて弾きにくい」と指摘し、ジルバーマンは改良を重ねて、後にバッハから「完全な承認」をもらったといいます。
さらに1749年5月8日付の販売の証書から、バッハがジルバーマンのピアノを売る仲介までしていたことがわかっています。
亡くなる前の年のバッハが、次の時代の主役になる楽器の販売を手伝っていたというのは、時代のバトンが渡される瞬間を見るようで、何度読んでも胸が熱くなります。
作曲家の働き方が変わった——3人の「お金の記録」
音楽の中身と同じくらい大きく変わったのが、作曲家の暮らし方です。
バッハをはじめとするそれまでの音楽家は、教会や宮廷に雇われなければ生計を立てるのが難しく、どれほどの巨匠でも「宮廷や教会に仕える一職人」という扱いを出ませんでした。
ところが市民が聴き手になると、ホールを借りて客を集める演奏会と、家庭で弾くための楽譜の販売という、ふたつの新しい収入源が生まれます。
競争に勝って人気を得た作曲家のもとにお金が集まるという、今の音楽業界の原型がこの時代にできあがったわけです。
その移り変わりを、3人それぞれの契約や手紙に残った記録で見ていきましょう。
ハイドン:制服を着た宮廷の使用人

ハイドンは1761年、ハンガリーの大貴族エステルハージ家に、楽団のナンバー2にあたる副楽長として雇われました。
立場は「家の役人」、つまり屋敷に仕える使用人のひとりで、決められた制服を着て働いていたのです。
書いた曲は主人のものとされ、自由に外へ出すことはできませんでした。
楽団員が1人ずつ消えていく「告別」交響曲
使用人という立場がよく表れているのが、1772年の交響曲第45番「告別」にまつわる話です。
この年、主人のエステルハージ侯爵は夏の離宮エステルハーザでの滞在をなかなか切り上げず、楽団員たちは家族の待つ町へ帰れないまま足止めされていました。
そこでハイドンは、願いを口で伝えるかわりに曲に込めました。最後の楽章では、自分の出番を終えた奏者が譜面台のろうそくを消して1人ずつ退場していき、最後にはハイドン自身とコンサートマスターの2人のバイオリンだけが残ります。
意図を察した侯爵は、演奏の翌日に宮廷を引き上げたと、ハイドンは晩年に伝記作者へ語っています。
主人に「帰らせてください」と直接は言えない立場と、それを音楽で言ってのける機転の両方が詰まった話で、私はこの曲を知ってからハイドンという人がぐっと好きになりました。
1779年の契約書がひらいた道
風向きが変わったのは1779年に契約が結び直されたときで、ハイドンはほかの人のために曲を書き、出版社に売ることを認められました。
これをきっかけに彼の楽譜はヨーロッパ中に出回り、名前が国外まで知れわたっていきます。
1781年に出した弦楽四重奏曲(作品33)を「まったく新しい特別な方法で書いた」と売り込んでいるあたり、なかなかの商売上手でもありました。
長い宮廷暮らしについて、ハイドン自身はこう振り返っています。
「私は世間から切り離されていて、まわりに私を迷わせたり悩ませたりする人がいなかった。
だから独創的になるほかなかった」。
不自由な環境を恨むのではなく、自分の個性が育った理由として語っているところに、この人の強さが表れていますよね。
モーツァルト:予約者174人を父に自慢した手紙

モーツァルトはハイドンと反対の道を選びました。
ザルツブルクの大司教に仕えていた彼は1781年に主人と決裂し、最後は大司教の側近アルコ伯爵に文字どおり尻を蹴られて追い出されたと、自分の手紙に書いています。
こうして彼は、宮廷に属さないフリーの音楽家としてウィーンで生きていくことになりました。
フリーの生活を支えたのが「予約演奏会」です。
これは、あらかじめ会員を募って代金を集めてから開くコンサートのことで、1784年3月20日に父へあてた手紙には、その成果が誇らしげに書かれています。
3回の演奏会に集まった予約者は174人で、ライバルの音楽家2人を合わせた数よりも30人多かったというのです。
会費は1人6グルデンでしたから、単純に掛け算すると1044グルデンになります。
3年後に宮廷から与えられた作曲家の職の年俸が800フローリン(グルデンと同じ通貨の別の呼び名です)だったことを考えると、たった3回のコンサートの売り上げが、宮廷の年俸を上回っていた計算になります。
「貧乏なモーツァルト」は本当か
モーツァルトには「貧しさのなかで亡くなった天才」というイメージがつきまといます。
たしかに晩年には、友人のプフベルクにお金を貸してほしいと頼む手紙が何通も残っていて、苦しい時期があったことは間違いありません。
ただ、上の数字が示すように、1780年代なかばの彼は押しも押されもせぬ売れっ子でした。
問題は、その人気が流行まかせだったことです。
演奏会の客足は移ろいやすく、戦争で貴族たちの財布のひもが固くなった時期とも重なったようで、収入は大きく波打ちました。
モーツァルトが亡くなったのは1791年12月5日、35歳のときです。
このあと見るように、ベートーヴェンが「いてくれるだけでいい」と貴族から年金を約束されるのは、それからわずか18年後のことでした。
才能が足りなかったのではなく、時代が彼に追いつくのがほんの少し遅かったのだと思うと、あの借金の手紙がいっそう切なく読めてきます。
▶モーツァルトの《レクイエム》「自分の死を予感して書いた」はどこまで本当なのか
ベートーヴェン:「ウィーンにいてくれ」と結ばれた年金契約

ベートーヴェンの時代になると、作曲家と貴族の力関係がはっきりと変わります。
きっかけは、ナポレオンの弟でヴェストファーレン王だったジェロームが、ドイツのカッセルの宮廷楽長として年600ドゥカートで彼を招こうとしたことでした。
これを知ったウィーンの貴族たち、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵の3人は、1809年にベートーヴェンと契約を結びます。
内容は、ウィーン(またはオーストリア)にとどまってくれるなら、年4000フローリンを生涯にわたって支払うというものでした。
ハイドンの契約と見比べてみてください。
制服も、決まった勤務も、曲を主人に納める義務も、そこにはありません。
「いてくれるだけでいい、心配ごとなく作曲してほしい」とお金を出す側が頭を下げているわけで、エステルハージ家の制服からわずか半世紀で、作曲家の立場はここまで変わっていました。
▶作曲家はどう生計を立ててた?「お金」でたどるクラシック音楽の歴史
「ハイドンの手からモーツァルトの精神を」——3人をつないだ線
24歳差の友情

ここまで3人を別々に見てきましたが、じつは彼らは同じ時代のウィーンで、しっかりつながっていました。
ハイドンはモーツァルトより24歳年上で、2人は1780年代に親しい友人になります。
1785年2月、ハイドンはモーツァルトの父レオポルトに向かって「神に誓って、正直な人間として申し上げます。
ご子息は、私が直接にも名前でも知っているなかで最も偉大な作曲家です」と語りました。
同じ年、モーツァルトは6曲の弦楽四重奏曲をハイドンに捧げて出版しています。
その献辞では、作品を世に送り出す自分を、息子たちを旅に出す父親にたとえ、ハイドンを「最良の友」と呼んで、その保護と導きをゆだねました。
弦楽四重奏の名人として尊敬する先輩に、いちばん力を込めた曲集を差し出したわけです。
ロンドンでの大成功と、受け継がれたバトン
1790年、仕えていた侯爵が亡くなって宮廷の仕事から解放されたハイドンは、ロンドンの興行主に招かれて海を渡ります。
2度にわたるイギリス滞在で得た純益は約1万5000フローリンとされていて、モーツァルトが宮廷からもらった年俸800フローリンの20年分近くになります。
制服を着て働いていた使用人が、60歳を目前にして、自分の名前ひとつで大金を稼ぐ「フリーの作曲家」になったのです。
けれども、ハイドンがロンドンにいるあいだの1791年12月、モーツァルトは35歳で亡くなってしまいました。
そして翌1792年11月、故郷ボンを離れてハイドンのもとへ学びに向かう21歳のベートーヴェンに、恩人のヴァルトシュタイン伯爵は記念帳へこう書き送っています。
「たゆまぬ努力によって、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取りなさい」。
後の時代に「古典派」と呼ばれる3人の線は、この一文のなかで、すでにひとつにつながっていたんですね。
「英雄」の表紙に残る、ベートーヴェンとナポレオン
破られた表紙と、穴があくほど削られた表紙
そのベートーヴェンが、フランス革命の理想を体現する人物として尊敬していたのがナポレオンでした。
ですが、考えてみてください。
ベートーヴェンが暮らすウィーンはオーストリアの都で、ナポレオンのフランスとは何度も戦火を交えた敵どうしです。
のちにはフランス軍がウィーンを砲撃し、ベートーヴェン自身が危ない目にあったとも伝えられています。
自分の住む国に攻めてくる相手の将軍に交響曲を捧げようとしていたわけで、その心酔ぶりは並大抵ではありません。
その交響曲第3番はもともと「ボナパルト」と名づけられていたのですが、1804年5月、ナポレオンが皇帝になったという知らせが届きます。
弟子のリースの回想によると、知らせを聞いたベートーヴェンは「あいつも結局、ただの人間だったのか!
これからは人間の権利をことごとく踏みにじって、自分の野心だけを満たすようになる。
誰よりも偉いつもりになって、暴君になるんだ!」と叫びました。
ひとことで言えば「お前も俗物だったのか」という、裏切られた者の怒りです。
そして机に歩み寄ると、楽譜の表紙をつかんで真っ二つに引き裂き、床に投げ捨てたといいます。
この破られた楽譜そのものは残っていません。

一方で、ウィーン楽友協会には、別の楽譜(清書用に写させたもの)が今も保管されています。
その表紙では「ボナパルトと題する」という意味のイタリア語が削り取られていて、力を入れすぎたために紙に穴があいているのです。
「破った話」と「削った跡」は別々の楽譜の話なのですが、よくひとつの出来事のように語られています。
3か月後の手紙には「題名はボナパルト」と書かれていた
話はここで終わりません。表紙を破ったとされる時期から約3か月後、ベートーヴェンは楽譜出版社にあてた手紙で、「この交響曲の題名は、本当はボナパルトです」と伝えているのです。
怒りにまかせて名前を消したはずなのに、なぜまた持ち出したのか。
はっきりした答えは残っていませんが、ナポレオンへの思いは「尊敬から軽蔑へ」と一直線に変わったのではなく、もっと揺れ動いていたのではないでしょうか。
結局、1806年に出版された楽譜には「英雄交響曲、ひとりの偉大な人物の思い出を祝って」というイタリア語の題がつけられました。
名前を消しても「偉大な人物」という言葉は残したところに、割り切れない気持ちがにじんでいるように私には思えます。
このあたりは、下記の記事でさらに詳しくまとめているので、ぜひチェックしてみてくださいね、
▶ベートーヴェン《英雄》と《皇帝》に刻まれたナポレオンの物語ベートーヴェン
記録とあわせて聴きたい3曲
ここまでの記録を思い浮かべながら聴くと、同じ曲がまるで違って聞こえてきます。
ハイドンなら、まずは交響曲第45番「告別」の最終楽章を、楽器の音が1つずつ減っていくのを追いかけながら聴いてみてください。
モーツァルトは、予約者174人の演奏会の時期に書かれ、父への手紙で拍手の大きさを報告したピアノ協奏曲第14番(K.449)がおすすめです。
そしてベートーヴェンは、やはり交響曲第3番「英雄」です。
表紙の物語を知ったうえで第2楽章の葬送行進曲に耳をかたむけると、彼が弔っているのは誰なのか、あるいは何なのかを考えずにはいられなくなります。
ここで挙げた曲は、音楽聴き放題サービスでも聴くことができます。
無料のお試し期間があるサービスもあるので、気になった曲から再生してみてください。
まとめ:名前より先に、音楽と人がいた

古典派音楽の特徴は、メロディと伴奏による聴きやすい作り、ソナタ形式と交響曲・弦楽四重奏・協奏曲の確立、そしてピアノの登場です。
さらに、作曲家が宮廷の使用人から自立した芸術家へ変わっていったことも、この時代を形づくる大きな特徴でした。
けれども「古典派」も「ソナタ形式」も後の時代が貼ったラベルで、当時の彼らは目の前の聴き手と明日の生活のために、手探りで新しい音楽を作っていました。
ろうそくを消して退場する楽団員を見送ったハイドン、予約者の数を父に自慢したモーツァルト、穴があくほど表紙を削ったベートーヴェン。
「古典」という額縁を外してみると、そこにいるのは整った偉人ではなく、驚くほど人間くさい3人です。
その他の主な、クラシックの時代を知ろう!
クラシック全体を見わたせるようになると、ひとつひとつの時代の理解がぐっと深まります。
よかったら、ほかの時代もあわせて読んでみてください。
▶中世音楽
▶近代音楽
また、こちらの方ではクラシックに見落としがちな知識もまとめていますので、ぜひチェックしてみてくださいね。
