バロック音楽とは?特徴・時代背景・作曲家を、当時の「悪口」と記録から読み解く

バロック音楽は、1600年ごろから1750年ごろまでのヨーロッパで作られた音楽のことで、バッハやヘンデル、ヴィヴァルディがその代表です。

ところが、当の作曲家たちは自分の音楽を「バロック」と呼んだことが一度もありません。

この呼び名が音楽の時代名として使われはじめたのは20世紀に入ってからで、バッハが亡くなって150年以上もあとのことなんです。

しかも「バロック」は、もともと「ごちゃごちゃして不自然だ」という意味の悪口でした。

悪口があとから時代の看板になり、区切りの年もあとから学者が引いたものだと知ると、教科書の年表が少し違って見えてきますよね。

バロック音楽とは?名前も区切りも「あとから」付けられた時代

1600年と1750年は、だれが決めたのか

150年という区切りは、後の時代の学者が目印になる出来事を2つ選んで引いた線です。

どちらの年も、選ばれた理由を知るとこの時代の性格がよく見えてきます。

はじまりは、王の結婚式で上演されたオペラ

1600年10月6日、イタリアのフィレンツェにあるピッティ宮殿で、ヤコポ・ペーリのオペラ『エウリディーチェ』が上演されました。

フランス王アンリ4世とマリア・デ・メディチの結婚を祝う出し物で、楽譜が残っているオペラ(歌で物語が進む劇)としては最も古い作品です。

ペーリはその数年前に『ダフネ』も書いていますが、こちらは音楽がほとんど失われてしまったため、目印には1600年が選ばれました。

日本史と並べてみると、この初演は関ヶ原の戦い(1600年10月21日)のおよそ2週間前にあたります。

フィレンツェで花嫁を祝う歌が響いていたころ、日本では天下分け目の戦いに向けて軍勢が動いていたわけです。

バッハが生まれた1685年は5代将軍・綱吉の時代なので、バロックの150年は江戸時代の前半とほぼ重なっています。

おわりは、バッハが亡くなった年

1750年は、J・S・バッハが亡くなった年です。

ただ、この年に音楽がいっせいに切りかわったわけではなく、バッハの晩年にはもっと軽やかでわかりやすい音楽がすでに流行していました。

そのため最近では、区切りを1720年ごろに置く考え方も有力になっています。

時代の始まりが王の結婚式で、終わりが一人の作曲家の死。

この組み合わせそのものが、あとで見る「宮廷の華やかな音楽」と「バッハの音楽」という2つの世界を映しているようにも見えます。

時代背景:王様が世の中を支配した150年

その2つの世界を生んだのが、当時のヨーロッパの政治です。

キーワードは「絶対王政」で、これは王様がひとりで国の権力をにぎる政治のしくみを指します。

絶対王政と、ぜいたくとしての音楽

ルネサンスからバロックへ移る16世紀ごろ、それまで強大な力をもっていた教会は弱り、各地の諸侯や貴族も長い戦争で疲れきっていました。

それをチャンスと見た王たちが、ここぞとばかりに権力を自分のもとへ集め、王様が世の中を支配する時代がやってきます。

いち早く絶対王政を固めたフランスは、王の力を見せつけるために、ヴェルサイユ宮殿をはじめとする豪華絢爛な建物をつくりあげました。

今では考えられませんが、国のトップが贅沢三昧をすることがよしとされ、王や貴族は市民から集めた税で夜な夜な豪華なパーティを開いていたんです。

のちの王妃マリー・アントワネットが言ったと伝えられる「パンがないのなら、ケーキを食べればいいじゃない」という言葉も有名ですね。

本人の言葉ではないという見方が有力ですが、王侯貴族が庶民の暮らしからどれほど遠く見えていたかをよく伝えています。

音楽も、そのぜいたくの一部でした。

大金を払って人気作曲家を雇い、催しのたびに新しい曲を書かせることが、そのまま王の格を示すことになったのです。

一方で、貴族の多くは世襲で、今のように誰でも自由に職業や身分を選べる社会ではなく、生まれによって人生の選択肢はかなり限られていました。

アメリカンドリームのようなサクセスストーリーは、めったに望めない時代です。

だからこそ、王や有力貴族に認められることは、音楽家にとって人生を大きく変える数少ないチャンスで、作曲家や演奏家は切磋琢磨しました。

宮廷の音楽家になれば、お金が舞い込んできますからね。こうして王や貴族のお金が、音楽の発展と進化を支えることになります。

王のための音楽で命を落としたリュリ

その数少ないチャンスをつかみ、宮廷音楽家の頂点まで上りつめたのが、フランス王ルイ14世に仕えたジャン=バティスト・リュリです。

フィレンツェ生まれの外国人でありながら、1661年に王の音楽総監督となり、1672年にはオペラを上演する権利まで手に入れて、フランスの音楽界を一手に取りしきりました。

1687年、リュリは王の病気回復を祝う『テ・デウム』を指揮している最中に、拍子を取るための長い杖で自分の足を突いてしまいます。

傷は壊疽(えそ。体の組織がくさってしまう病気)になりましたが、彼は足の指を切り落とす手術をこばみ、同じ年の3月22日に亡くなりました。

王をたたえる音楽の最中に負った傷が命取りになったわけで、王に仕える音楽家の一生が、そのまま最期の場面にあらわれています。

カトリックとプロテスタント、2つの世界

ただし、ヨーロッパ全体が同じ色に染まっていたわけではありません。

宗教改革によってキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれていて、宗派だけできれいに分けられるわけではないものの、大まかには次のような傾向がありました。

  • カトリック圏(イタリア、フランス、スペイン、オーストリアなど):王や大貴族の宮廷と劇場を中心に、オペラをはじめとするド派手で華やかな音楽文化が大きく発展しました。たくさんの音楽家を生み、世の中の音楽の流行をつくっていたのは、主にこちらです。
  • プロテスタント圏(ドイツの北部・中部など):プロテスタントの諸侯にも豪華な宮廷はありましたが、それと並んで、町や教会を土台にした音楽が重要な役割を果たしました。

宮廷の音楽が主流とはいえ、全盛期にくらべれば影をひそめた教会も、礼拝のためにたくさんの音楽を必要としていました。

教会が音楽の発展を支える力も、まだまだ残っていたわけです。

そして、のちにバロックの代名詞になるバッハが生まれたのは、町と教会の音楽が根づいたプロテスタントの側でした。

音楽はどう変わったのか:耳でわかる3つの変化

王と教会のお金に支えられて、音楽そのものも大きく変わりました。

ルネサンスとの違いは、録音を聴けば耳ではっきりわかるものばかりです。

①主役のメロディが生まれた

ひとつ前のルネサンス時代は、いくつもの旋律が対等にからみ合う「ポリフォニー」という書き方が主流でした。

「美と調和」の音楽で、うっとりするほど美しい響きを作れる一方、強弱の対比や起伏をつけにくく、パートごとに別々の歌詞を歌うので言葉が聞き取りにくいという弱点がありました。

そこでルネサンスの終わりごろから、ひとつのメロディを主役にして歌詞を歌わせ、ほかのパートを伴奏という脇役にまわす書き方が広がります。

これが「ホモフォニー」で、今のポップスとほとんど同じ考え方ですね。

歌詞がはっきり伝わるようになったことで、音楽に感情表現やドラマティックな展開が持ちこめるようになりました。

「規則違反だ」とたたかれたモンテヴェルディ

もっとも、この新しい書き方はすんなり受け入れられたわけではありません。

1600年、音楽理論家のアルトゥージは『アルトゥージ、あるいは近代音楽の不完全さについて』という本を出しました。

その中で、作曲家の名前を伏せたまま未出版の曲を取りあげ、不協和音(にごった響き)の使い方が規則違反だと攻撃したのです。

その曲が、モンテヴェルディのマドリガーレ(歌詞を大切にする合唱曲)『つれないアマリッリ』です。

モンテヴェルディは引き下がりませんでした。

1605年に出した曲集で、その『つれないアマリッリ』をわざわざ1曲目に置き、序文で自分の書き方を「第二の作法」と名づけたのです。

古い規則を知らないのではなく、歌詞の感情を伝えるために破っているのだ、という宣言でした。

2年後には弟が兄の考えを解説し、「言葉こそが音楽の主人であって、召使いではない」という趣旨の言葉を残したと伝えられています。

オペラは「当然の結果」だった

言葉と感情を主役にした音楽が、人間の喜怒哀楽や人生そのものを描こうとすれば、行きつく先は歌で進むお芝居です。

オペラの誕生は、至極当然の結果だったのかもしれません。

モンテヴェルディが1607年に書いた『オルフェオ』は、今でも上演される最初期の傑作になりました。

はじめは王侯貴族の結婚式や祝典のための出し物だったオペラは、やがて専用の劇場がつくられるほど大流行します。

1637年にはヴェネツィアに、入場券を買えば誰でも入れる世界初の公開オペラ劇場が生まれ、王や貴族だけでなく、ひと握りの裕福な市民の社交の場としても栄えていきました。

②ベースが音楽を支えはじめた

主役のメロディが生まれると、その主役を下から支える仕組みが必要になります。

バロックといえばバッハのフーガを思い浮かべる人が多いのですが、この時代のもっとも特徴的な発明は、その支え役である「通奏低音」でした。

通奏低音は、ジャズピアノに似ている

通奏低音とは、文字どおり1曲を通して音楽を支えつづけるベースのことで、名前だけ聞くと難しそうに思えますよね。

今で言えば、ジャズピアノがしっくりきます。左手でベースを弾きながら、そのベースに合った和音を右手でカッコ良く即興で埋めていく、あのイメージです。

実際の楽譜には、低音の音符が書かれ、その上に「4」や「7」といった数字が添えられることもあります。

チェンバロ(弦をはじいて鳴らす鍵盤楽器)などの奏者は、その数字をコード表のように読みながら即興で伴奏をつけ、その上でソロ楽器がメロディを奏でました。

バロックの曲を聴くと、最初から最後まで低い音とチェンバロのシャラシャラした和音が鳴りつづけていることに気づくはずで、それが通奏低音です。

この方法は、次の古典派の時代になるとあまり使われなくなっていきました。

和音が「柱」になり、長調と短調が生まれた

ベースが音楽を支えるようになると、和音の考え方も変わります。

ルネサンス音楽では、それぞれの旋律の動きが作曲の中心にあり、和音はその重なりとしてとらえられる傾向が強くありました。

それがバロックになると、低音とその上に積み重なる和音の関係がはっきり意識されるようになり、横に流れるメロディから、縦にそびえる柱のように和音が音楽を支える形へと重心が移っていきます。

それにあわせて、中世から使われてきた「教会旋法」という何種類もの音階を中心にした考え方から、17〜18世紀にかけて、長調と短調を中心とする調性のしくみが次第に整っていきました。

長調はアイオニアン、短調はエオリアンと呼ばれる旋法に近い音階で、ほかの旋法はやがて特別な雰囲気を出したいときに使うものになっていきます。

今わたしたちが耳にする音楽のほとんどは、このとき形が整った長調・短調の上に成り立っています。

③「対照」で盛り上げる音楽

3つめの変化は、音楽の盛り上げ方です。

ルネサンスの「均等美」とは真逆に、バロックの音楽は、違うものをぶつけ合ったときに生まれるダイナミズム(力強い動き)を求めました。

その発想から生まれた新しいジャンルが、協奏曲です。

協奏曲は「競い合い」から始まった

協奏曲の原点は、少人数のソロ組と大人数の合奏を交互に、競わせるように鳴らすことにありました。

音色の対照と、音量の対照です。

ローマで活躍したコレッリは、ヴァイオリン2人とチェロのソロ組を弦楽合奏とかけ合わせる「合奏協奏曲」の型を作り、その作品はヴィヴァルディやヘンデル、バッハにまで影響を与えました。

ヴィヴァルディはさらに、ひとりの独奏者が主役になる協奏曲を数多く書き、「急〜緩〜急」という躍動感のある3楽章の形を確立します。

代表作の『四季』は1725年に出版された曲集の一部で、楽譜にはそれぞれの季節をうたった短い詩がそえられていました。

「春」の第2楽章では、居眠りする羊飼いのそばでヴィオラが番犬の鳴き声を刻んでいます。

ロマン派や近代音楽のド派手な迫力に慣れた今の耳には、バロックの音楽はおとなしく聞こえるかもしれません。

それでも当時の人にとっては、とても斬新で刺激的な響きでした。バッハの『ブランデンブルク協奏曲』も、この「対照」の音楽の代表作です。

楽器の進化が、楽器だけの曲を増やした

こうした器楽の発展を支えたのが、楽器そのものの進化です。

それまでの音楽は歌が中心でしたが、バロック後期になると楽器の性能が上がり、高度な作曲技術や演奏技術を楽器で表現できるようになりました。

ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロといったヴァイオリン属の楽器は16世紀にはすでにありましたが、盛んに作られるのは17〜18世紀です。

ストラディヴァリやガスパロ・ダ・サロといった職人が、今も名器とされる楽器を残しています。

主役が入れかわった楽器もあります。

中世から活躍してきたリュート(丸い胴をもつ弦楽器)は、ヴァイオリンの広がりとともに次第に存在感を失い、リコーダーも18世紀には横笛のフルートに主役の座をゆずっていきました。

オーボエやファゴットといった木管楽器も合奏に定着しましたが、金管楽器はまだ音を自由に変えるしくみがなく、出せる音に限りがありました。

鍵盤楽器では、教会のパイプオルガンと、通奏低音を支えるチェンバロが花形です。

1700年ごろにはイタリアで今のピアノの原型であるフォルテピアノが生まれ、実はバッハも晩年にこれを試奏しています。

弦をばちでたたいて鳴らすダルシマーは、名前に「甘い旋律」という意味があり、ピアノと同じく弦を打って音を鳴らす楽器です。その幻想的な音色には今もファンが多くいます。

現代で使われている楽器の原型が、この時代にたくさん作られたのですね。

独奏楽器の技を見せつけるような音楽のスタイルも、ここで生まれて古典派やロマン派へ受けつがれていきます。

のちに古典派を代表する交響曲や弦楽四重奏も、バロックの末期から18世紀半ばにかけて形を整えはじめ、ハイドンやモーツァルトの時代に大きく花開いていきます。

対位法は「古い技術」として生き残った

主役と伴奏の音楽が広まったからといって、メロディをからみ合わせる技術(対位法)が消えたわけではありません。

お手本はルネサンス期のジョスカンやパレストリーナが残した作品で、のちにバッハもパレストリーナの音楽を研究しています。

ルネサンスでは合唱が中心だった対位法は、バロックでは楽器の曲にも広がりました。

ただし、バッハが極めたフーガ(ひとつのメロディを次々と追いかけ合わせる曲)などの技法も、突然生まれたわけではありません。

その源流は、彼が生まれる200年も前の模倣対位法にまでさかのぼります。

ホモフォニーが広まったバッハの時代には、ルネサンス以来の対位法はすでに長い歴史をもつ技術でした。

バッハはその古い伝統を受け継ぎながら、さらに高度なものへと発展させたのです。

この時代のおもな音楽ジャンル

交響曲がまだ主役になる前のバロックには、受難曲やオラトリオ、カンタータなど、今の私たちには違いがつかみにくいジャンルがたくさんありました。

よく出てくるのは次の4つです。

  • トッカータ:鍵盤楽器で弾く、即興風で技巧的な曲です。16世紀のイタリアで始まってドイツへ広まり、バッハのオルガン曲が有名です。
  • カンタータ:楽器の伴奏がついた声楽曲で、「歌われるもの」という意味です。
  • オラトリオ:宗教や道徳をテーマにした、独唱・合唱・管弦楽のための大きな作品です。オペラと違って、衣装や演技、舞台装置を使いません。古典派やロマン派にも受けつがれ、名曲がたくさん残されています。
  • アリア:オペラやオラトリオ、カンタータの中で、歌い手がひとりで感情をたっぷり歌うメロディアスな曲です。

 

「バロック」は、もともと悪口だった

ここまで当たり前のように「バロック」と呼んできましたが、冒頭でふれたとおり、この言葉はほめ言葉ではありませんでした。

語源はポルトガル語の「バローコ(いびつな形の真珠)」だとされ、ルネサンスの「美しい調和」にくらべて形がゆがんでいる、とからかう言葉だったのです。

1734年の匿名批評と、ルソーの辞典

音楽に向かってこの言葉が投げつけられた古い例は、1734年5月のフランスの雑誌『メルキュール・ド・フランス』に載った匿名の批評です。

前の年に初演されたラモーのオペラ『イポリートとアリシー』を、旋律にまとまりがなく、不協和音が続き、調も拍子もころころ変わる、とこきおろす文脈で使われました。

1746年には批評家プリュシュも、わざわざ海の底からいびつな真珠を拾ってくるような音楽だ、と皮肉っています。

決定的なのは、思想家ルソーが1768年の『音楽辞典』に書いた説明です。

そこには「バロックな音楽とは、和声が混乱し、転調と不協和音だらけで、歌はかたく不自然、音程は取りにくく、動きがぎこちない音楽である」という意味のことが書かれています。

辞書の項目なのに、まるで腹を立てた客の感想のようですよね。

時代の名前になったのは20世紀

この悪口が時代の名前に変わったのは、20世紀に入ってからでした。

美術の世界では、ルネサンスのあとの様式を「バロック」と呼ぶ見方が先に広まっていて、その考え方を音楽史にもちこんだのが音楽学者たちです。

かつてはドイツのクルト・ザックスが1919年の論文で初めて使ったとされてきました。

ところが現在では、オーストリアのエゴン・ヴェレスが1909年にすでに音楽に「バロック」という語を使っていたことがわかっています。

ザックスの論文と同じ1919年には、もうひとつ象徴的な出来事がありました。

今では知らない人がいないパッヘルベルの『カノン』が、この年に初めて楽譜として出版されたのです。

いつ書かれたのかも分かっておらず、残っている一番古い楽譜は19世紀の写しで、世界的に広まったのは1968年のパイヤール室内管弦楽団の録音がきっかけでした。

私たちが思い浮かべる「バロック」のイメージは、名前も名曲も、かなりの部分が20世紀に作られたものなんですね。

150年を彩ったおもな作曲家

名前は20世紀のものでも、この150年を実際に生きた作曲家たちは確かにいました。

時期ごとに見ていくと、前期にはオペラを生んだモンテヴェルディとヤコポ・ペーリがいます。

中期にはフランス宮廷のリュリ、北ドイツのオルガン奏者ブクステフーデ、『カノン』のパッヘルベルが活躍しました。

後期になると、協奏曲の型を作ったコレッリに続いて、ヴィヴァルディとアルビノーニがイタリアで、クープランとラモーがフランスで活躍します。

ドイツからはテレマン、J・S・バッハ、ヘンデルが出て、イタリアではドメニコ・スカルラッティが数百曲ものチェンバロのソナタを書きました。

このうちブクステフーデは、若いバッハが憧れた人でもあります。

1705年、20歳のバッハは彼の演奏を聴くために、片道およそ450kmの道のりを歩いて北ドイツのリューベックまで出かけたと伝えられています。

バッハはひっそりと生まれ、ひっそりと去った

そのバッハは、今でこそバロックの頂点とされていますが、生きているあいだの扱いはまったく違いました。

現代まで名前が残る作曲家は、たいてい生きているうちに一大センセーションを起こした人たちですが、バッハはまったくあてはまりません。

当時は作曲家というより、優秀な地方のオルガン奏者というイメージが強かったようです。

オペラを書かず、ドイツから出なかった作曲家

バッハはプロテスタント地域を中心に活動し、教会や宮廷、町のための音楽を数多く書きました。

一方で、当時最大の花形だったオペラは1曲も残しておらず、音楽の中心地イタリアはおろか、フランスやオーストリアにも足を運んでいません。

かといって、外国の流行に背を向けていたわけではありません。

ヴィヴァルディの協奏曲を鍵盤楽器用に編曲したり、『イタリア協奏曲』や『フランス組曲』を書いたりと、イタリアやフランスの華やかな様式を楽譜を通して熱心に取りこんでいます。

同い年のヘンデルは、ロンドンのスターだった

対照的なのが、同じ1685年にドイツで生まれたヘンデルです。

イタリアで腕を磨いたあとロンドンに渡り、1711年のオペラ『リナルド』で大成功を収めて、生涯に40曲以上のオペラを書きました。

やがてイタリア・オペラの人気が落ちると、英語で歌うオラトリオへ切りかえ、1741年にはわずか24日間で『メサイア』を書きあげています。

翌年ダブリンで行われた『メサイア』の初演は慈善演奏会で、その収益は借金によって投獄された人々の救済や病院の支援に充てられました。

当時のダブリンでは、慈善音楽協会によって142人の債務囚が解放されたという記録も残っています。

流行の変化を読み、劇場の客を相手に勝負しつづけたヘンデルの姿は、地方の教会で働きつづけたバッハとは見事なほど正反対です。

「2つの世界」で見ないと、バロックはわからない

このすれ違いが、バロック音楽の相関図をややこしくしています。

当時の主役は王侯貴族のきらびやかな音楽とオペラだったのに、現代から見ると、ドイツの片田舎にいたバッハが時代の真ん中に座っているからです。

バッハがいくら現代で巨匠であっても、「バロック時代=バッハの音楽」という見方は間違いで、「宮廷の派手な音楽」と「バッハの音楽」という2つの世界があったと見なければなりません。

牢に入れられ、ライプツィヒでも本命ではなかった

もっとも、地味な場所にいたバッハ本人は、おとなしい人だったわけでもなさそうです。

1717年、ワイマールの宮廷で働いていたバッハは、別の宮廷へ移るための辞職をあまりに強く求めたため、11月6日から12月2日まで拘留されました。

宮廷の記録に日付つきで残っている話で、雇い主に逆らう音楽家がどう扱われたかがよくわかります。

1723年、バッハはライプツィヒの聖トーマス教会でカントル(教会の音楽責任者)になりますが、最初から本命だったわけではありません。

この職には複数の音楽家が名乗りをあげていて、議会はまず人気作曲家のテレマンを選び、断られると次にグラウプナーへ声をかけました。

選考が難航した末に、ようやくバッハに決まったのです。

議員のひとりは「最良の人が得られないのだから、中くらいの人で我慢するしかない」という意味の発言をしたと伝えられています。

「大げさで混乱している」と書かれたバッハ

評論家からの風当たりも強いものでした。

1737年、音楽批評家シャイベは雑誌の中で、バッハとわかる人物の音楽を、飾りが多すぎて旋律が埋もれ、すべてのパートが同じように動くので、大げさで混乱していて不自然だと批判しています。

200年前の技術である対位法を中心にしたバッハの音楽は、当時の耳には難しすぎる時代遅れの音楽に映ったのでしょう。

この言葉づかいを、先ほどのルソーの定義と見くらべてみてください。

「混乱」「不自然」という単語がそっくり重なっています。

バッハは「バロック」という名前では呼ばれなかったものの、のちにその言葉の定義になる悪口を、生前にそのまま浴びていたわけで、私にはこの一致が、調べた中でいちばん面白く感じられました。

それでもバッハは、バロック音楽の集大成と呼べる作品を次々と書いていました。

個人的には、この時代のバッハのベースラインは本当に秀逸だと感じます。

『管弦楽組曲第1番』の冒頭を聴くと、旋律の下で「うねるベース」が動きつづけていて、低音が音楽の重要な役を担う新しい時代が生まれていることがはっきりわかります。

あまり知られていない曲ですが、「これぞ巨匠バッハ!」と言いたくなる1曲なので、ぜひ一度聴いてみてください。

7月28日という日付

バッハは1750年、目の手術を受けたあとに体調をくずし、7月28日に亡くなりました。

その9年前の1741年には、ヴェネツィアで名声をきわめたヴィヴァルディが、頼りにしていた皇帝に先立たれ、ウィーンでひっそりと世を去っています。

亡くなったのは7月27日の夜から28日にかけてで、葬儀もごく質素なものでした。

2人の最期の日付が重なるのはただの偶然ですが、宮廷の世界と教会の世界、それぞれを代表した作曲家がそろって静かに消えていったことは、どこか象徴的です。

バッハの音楽が広く見直されるのは、メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を復活上演した1829年のことです。

ヴィヴァルディの膨大な自筆譜が再び日の目を見るのはさらに遅い1920年代で、それらは紆余曲折を経て、1930年までにトリノの図書館へ集められました。

バッハの音楽について、下記でさらに詳しくまとめているので、こちらもぜひチェックしてみてくださいね。

▶G線上のアリアを詳細に解説

▶トッカータとフーガニ短調

▶バッハが蘇った夜

宮廷の外で、市民が音楽を聴きはじめた

バッハとヘンデルの人生をくらべると、王侯貴族のための音楽が主流だったこの時代に、お金を払って音楽を楽しむ市民が少しずつ増えていたこともわかります。

その先がけが、先ほどの1637年のヴェネツィアの公開オペラ劇場でした。

ヘンデルがロンドンで相手にしたのも劇場の観客で、『メサイア』は慈善演奏会として初演されています。

そして地味なバッハでさえ、1729年から1737年まで、ライプツィヒのツィンマーマンのコーヒーハウスで、学生や町の音楽家による演奏会を毎週のように指揮していました。

そこで上演されたと考えられているのが、通称『コーヒー・カンタータ』です。

コーヒーをやめさせたい頑固な父親と、何を言われてもやめない娘のやりとりを描いた喜劇で、最後は「コーヒーを飲むのは自然なこと」と歌って終わります。

教会のカントルが、コーヒーハウスでコーヒー好きを笑う曲を指揮していたと思うと、バッハの印象が少し変わりますよね。

音楽の世界で市民の存在感が増していく一方、18世紀のヨーロッパでは政治や経済の面でも社会が大きく変わっていきます。

そしてバロックの時代が終わって40年ほどのち、1789年のフランス革命によって、王侯貴族を中心とした古い社会は大きく揺さぶられました。

王侯貴族の「いびつな真珠」は、最後に市民革命で砕かれた、と言ってもいいかもしれません。

18〜19世紀には産業革命や市場経済の発展も進み、世の中は近代へ向かって動いていきます。

そう考えると、バロックは「近代化」への架け橋に過ぎない時代だった、とも言えるでしょう。

音楽を支える場所も宮廷だけでなく、劇場や公開演奏会、コンサートホールへと広がり、その先に待っているのがハイドンやモーツァルトの古典派です。

まとめ:音楽は、時代を映す鏡

音楽の発展は、世の中の動きと密接に結びついていることが多く、バロックも例外ではありません。

主役のいないポリフォニーから、主役のメロディがはっきりしたホモフォニーへという変化は、「主役である王」が絶対的な存在感を示した絶対王政の世の中と、不思議なほど一致しています。

偶然にしては、あまりにも良くできすぎていると思います。

音楽がその時代を鏡のように映すのだとすれば、次にどんな音楽が流行るかを予想したいときは、まず世の中の流れをつかむことが大事なのかもしれません。

そして新しい音楽は、いつも攻撃されてきました。

モンテヴェルディはアルトゥージに、ラモーは匿名の批評家に、バッハはシャイベにたたかれ、あげくに時代の名前そのものが「いびつな真珠」という悪口から取られています。

今となってはすばらしい芸術の時代ですが、時代を動かす新しい流れが生まれると保守派から攻撃されるというのは、いつの時代でも同じなんですね。

バロックの名曲を、本文の順番で聴いてみよう

ここまで読んだら、ぜひ実際の音で確かめてみてください。

音楽の聴き放題サービスなら、この記事に出てきた曲をまとめて聴くことができます。

▶クラシックの楽曲が聴ける音楽サブスク4選

聴く曲に迷ったら、本文で紹介した順に次の6つを聴いてみてください。

150年のあいだに音楽がどう変わったかを、耳でたどることができます。

  1. モンテヴェルディ『オルフェオ』:言葉と感情を主役にした、最初期のオペラです。
  2. パッヘルベル『カノン』:低音が最後まで同じ形をくり返し、その上で旋律が重なっていきます。通奏低音の考え方がよくわかる1曲です。
  3. コレッリ『合奏協奏曲集 作品6』:ソロ組と合奏がかけ合う「対照」の音楽です。
  4. ヴィヴァルディ『四季』:「春」の第2楽章で、ヴィオラの番犬を探してみてください。
  5. J・S・バッハ『管弦楽組曲第1番』『ブランデンブルク協奏曲』『トッカータとフーガ ニ短調』:『管弦楽組曲第1番』では冒頭の「うねるベース」に、『ブランデンブルク協奏曲』では楽器同士のかけ合いに、『トッカータとフーガ ニ短調』では劇的なオルガンの響きに注目です。なお『G線上のアリア』は、『管弦楽組曲第3番』の第2曲を後の時代に編曲した曲です。
  6. ヘンデル『メサイア』:24日間で書かれたオラトリオで、「ハレルヤ」コーラスが有名です。

 

その他の主な、クラシックの時代を知ろう!

クラシック全体を見わたせるようになると、音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。よかったら、ほかの時代もあわせて読んでみてくださいね。

▶中世音楽

▶ルネサンス音楽

▶バロック音楽

▶ロマン派音楽

▶印象主義音楽

▶近代音楽

また、こちらの方ではクラシックに見落としがちな知識もまとめていますので、ぜひチェックしてみてくださいね。

▶クラシック音楽の年表

▶クラシックの作曲家の年表