ルネサンス音楽とは?3度の響きと作曲家たちの人間ドラマでたどる200年

「ジョスカンは亡くなってからのほうが、生きていたときよりたくさん曲を出している」。

1540年、ドイツの楽譜出版者ゲオルク・フォルスターは、ある人物の言葉としてこんな皮肉を書きとめました。

亡くなった人が新曲を出せるはずはないので、人気作曲家ジョスカン・デ・プレの名前を他人の曲に付けて売る人が、後を絶たなかったという話なんです。

作曲家の名前がブランドになり、にせものまで出回るのは、今ならよくある話ですよね。

ところが中世の曲の多くは、作った人の名前が伝わっていません。

名前のなかった音楽が名前で売れる音楽へ変わり、響きそのものも大きく生まれ変わった200年間が、ルネサンス音楽の時代(1400年頃〜1600年頃)です。

目次

先に結論:ルネサンス音楽の特徴3つ

  • 響きがやわらかくなった:中世の硬い響きに3度・6度の甘いハーモニーが加わり、それを支える調律や理論も整っていきました
  • 旋律を対等に重ねる技術が頂点に達した:複数の旋律を同時に歌うポリフォニーが、ジョスカンやパレストリーナの手で磨き上げられました
  • 「作曲家の名前」がブランドになった:作品に作曲者名が記される機会が増え、楽譜印刷によって人気作曲家の名前そのものが価値を持つようになりました

学校の音楽の授業ではほとんど触れられない時代なので、中世音楽との違いを説明できる人は多くありません。

流れは3段階に分けられます。

教会主導の音楽から抜け出して「美しさ」を求めた前期、その美しさの上にさまざまな様式が花開いた中期、そして育ててきた音楽をみずから否定し、感情の表現に挑んだ後期です。

なぜ生まれた?「復興」なのにお手本がなかった音楽

教会の時代から「人間」の時代へ

13世紀頃までのヨーロッパでは教会の力がとても強く、残された音楽資料でも宗教音楽が大きな位置を占めています。

ただし、宮廷や町では恋愛歌や舞曲などの世俗音楽も盛んに作られていました。

14世紀に入ると、十字軍のたび重なる失敗や教皇庁の分裂(ローマ教皇が2人、3人と並び立った混乱)によって、教会の権威が大きくゆらぎます。

かわりに力をつけたのが、香辛料貿易や銀行で莫大な富を得たイタリアの商人たちでした。

彼らは芸術や学問に多額のお金をつぎこみ、個人が自分の表現を発信できた古代ギリシア・ローマの文化をよみがえらせようとしたので、この時代はルネサンス、つまり「復興」と呼ばれます。

人間そのものの価値や、この世での生き方にあらためて光が当てられるようになったことは、ルネサンス芸術を支える大きな力になりました。

その流れのなかで、作曲家も自分の感性を音で表し、より高い技術を目指すようになりました。

音楽が、私たちのイメージする「芸術」になったのは、この時代からなんです。

ただし、ルネサンスは神を否定した運動ではありません。

神を信じることを大前提に、人間もこの世で意味を持って生きていけると考えるようになったのがこの時代で、教会の影響力と富もまだまだ健在でした。

古代の音楽は、誰も聴いたことがなかった

とはいえ音楽家には、画家や彫刻家にはない悩みがありました。

彫刻家は掘り出された古代の像を見て学べたのに、古代ギリシアの音楽は、実際の響きがほとんど伝わっていなかったのです。

お手本がない以上、音楽家たちは目の前にある中世の音楽を作り変えるところから始めるしかありませんでした。

「復興」の時代なのに、音楽だけは復興するものがなかったわけです。

古代ギリシアを本気でお手本にしようとする人たちが現れるのは、この時代の終わりぎわになってからでした。

前期(1420〜1470年頃):海を渡ってきた「甘い響き」

フランス・イギリス・イタリアの「いいとこ取り」

中世音楽の解説でも触れたように、中世の終わり頃には、フランスの複雑で音楽的なリズム、イギリスの3度・6度のハーモニー、イタリアの印象的なメロディが、それぞれの土地で育っていました。

リズム・ハーモニー・メロディといえば、現代の音楽でも3大要素と言われるものですよね。

この3つが出会って溶け合い、生まれたのがルネサンス音楽です。

融合をなしとげたのは、ブルゴーニュ公国(今のフランス東部からベルギーあたり)の宮廷で活躍したブルゴーニュ楽派、なかでもギヨーム・デュファイでした。

中心は中世から続く無伴奏の宗教合唱曲ですが、メロディはおおらかで、響きは温かくなりました。

ミサ曲(カトリックの礼拝「ミサ」で歌う、決まった歌詞の曲)やモテット(ラテン語の歌詞をもつ宗教合唱曲)、シャンソン(フランス語の歌)が数多く作られています。

多くは、合唱のソプラノやテノールのような3つのパート(声部)が別々の旋律を歌う、ポリフォニー(複数の旋律を同時に重ねる音楽)で書かれていました。

詩人が証言した「イギリスふう」

この変化には、同じ時代の証人がいます。

1441〜42年頃に詩人マルタン・ル・フランが書いた長い詩『女性の擁護者』には、デュファイとバンショワが「イギリスふうの様子(コントナンス・アングロワーズ)」を取り入れ、ダンスタブルにならったと歌われています。

具体的に何を指すのか詩に説明はないものの、3度や6度を多く使った豊かな響きのことだろう、というのが一般的な見方です。

しかも、そのダンスタブルの作品は、多くが本国ではなく北イタリアなどの写本から見つかっています。

16世紀の宗教改革でイギリスの修道院が解散させられ、楽譜の多くが失われたためで、本国で消えた音楽を、影響を受けた側の国々が守っていたことになります。

大理石の柱が、山の湧き水に変わる

中世の音楽は、4度や5度という「完全協和音程」(濁りがなく、すっきり溶け合う音の組み合わせ)を土台にしていたので、その響きは大理石の柱のように冷たく硬い印象です。

これに対して、ドとミ、ドとラのような3度や6度は「不完全協和音程」と呼ばれ、少しやわらかく溶け合います。

この響きが、山あいから湧き出す水のような輝きとやわらかさを音楽に与えました。

その輝きには、神の権威におびえることなく生きていく人々の力や喜びが、あふれ出しているように感じます。

私たちが合唱やポップスのハモりを「気持ちいい」と感じる、あの感覚の出発点がここにあるんです。

なぜ中世の3度は「濁って」いたのか

中世の人が3度を響きの土台にしなかったのには、音の高さを決める「調律」の事情がありました。

中世のピタゴラス音律は、きれいに響く5度(振動数の比が2:3)を積み重ねて音階を作るので、ドとミの長3度は81:64という複雑な比になります。

理想的な3度の4:5と比べると半音の5分の1ほど高く、和音にすると濁って聞こえてしまうのです。

歌声なら歌い手が耳で合わせられますが、鍵盤楽器はそうはいきません。

そこで15世紀末から16世紀にかけては、5度をほんの少し狭めるかわりに3度をきれいに響かせる「中全音律(ミーントーン)」系の調律が、鍵盤楽器で重要になっていきました。

1523年にはピエトロ・アーロンがその原型となる調律法を書き残していて、大理石が湧き水に変わった裏では、音の高さそのものの作り直しが進んでいたわけです。

理論の世界でこの響きに居場所を与えたのが、ヴェネツィアのザルリーノです。

1558年の著書『和声教程』で、3度を重要な協和音程として理論化し、現在の長三和音・短三和音につながる響きの違いを詳しく論じました。

こうした考え方は、のちの長調・短調の発達にもつながっていきます。

1436年3月25日、巨大ドームの下で

デュファイには、日付まではっきりわかっている晴れ舞台があります。

1436年3月25日、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、ブルネレスキが架けた巨大なドーム(丸屋根)の完成を祝う献堂式が開かれ、教皇みずからが式を執り行いました。

この日のためにデュファイが書いたのが、モテット『ばらの花が先ごろ』です。

その場にいた人文学者マネッティは、天使の歌が天から降りてきたようで、聴く人の耳を不思議な甘さで満たした、という意味の言葉を残しています。

この曲では土台となる聖歌の旋律が4回くり返され、そのたびに速さが変わるので、4つの部分の長さは6:4:2:3の比になっています。

1973年にはこの比が「大聖堂の寸法を写したもの」だという説が出され、1994年には、聖書に書かれたソロモンの神殿の寸法(60・40・20・30)のほうがぴったり合うという反論が出ました。

500年以上前の一曲をめぐって、現代の学者が今も「どの建物の比率か」を論じ合っているわけです。

恋の歌でミサ曲を作る:循環ミサ曲と対位法

前期に生まれた大事な形が「循環ミサ曲」です。

ミサ曲はキリエ、グロリアなどいくつもの楽章からできていて、そのどの楽章にも同じ「定旋律」(曲の土台に置く、もとからある旋律)を使って全体をまとめるのが、この方式でした。デュファイにいたっては、自分が作った恋の歌の旋律を、ミサ曲の土台にしています。

ひとつのテーマですべての楽章を関連づける考え方は、のちのソナタ形式や交響曲にも通じるところがあり、クラシックの基礎となる発想がここで形になったと言えるでしょう。

そうした曲を支えたのが、ある旋律に別の旋律をからませて組み立てる「対位法」です。

中世のオルガヌム(聖歌に別の声部を重ねた初期の多声音楽)で原型ができていたこの技術は、ルネサンス期に大きく発達し、次のバロック期には楽器の対位法へと広がっていきました。

 

中期(1470〜1520年頃):高くて気むずかしい天才、ジョスカン

フランドル楽派と、低音の誕生

ブルゴーニュ楽派の音楽を受けつぎ、さらに発展させたのがフランドル楽派です。

フランドル(今のベルギーから北フランス)で育った音楽家たちは、イタリアをはじめ各地の宮廷や教会にやとわれたので、彼らの様式はヨーロッパ全体の共通語のようになりました。

響きの面で大きかったのは、低い声部の広がりです。

この楽派のオケゲムは、自身が低い声の歌い手だったとも言われ、音域が広くよく動く低音を書きました。

15世紀後半には3声から4声で書くのがふつうになっていき、今の合唱のソプラノ・アルト・テノール・バスにつながる形が整っていきます。

その頂点に立ったのが、冒頭の皮肉の主人公ジョスカン・デ・プレです。

「調和」「優美」「静けさ」というルネサンス芸術の理想が、彼の音楽でひとつの頂点に達したと言ってよいでしょう。

通模倣様式:追いかけっこをする旋律

それまでの曲では、定旋律はテノールと呼ばれる声部に置かれ、長い音でゆっくり歌われるのがふつうでした。

ジョスカンはこの定旋律を、全員が受けわたす主役の旋律に変えます。

まずひとつの声部が歌い出し、次の声部が同じ旋律で追いかけ、さらに3番目、4番目と重なっていくので、「かえるの歌」の輪唱を思い浮かべるとイメージしやすいはずです。

歌詞の区切りごとに新しい旋律が全員にまわっていくため、どの声部も対等に主役を務めます。

この書き方はヨーロッパ中に広まり、のちのフーガにもつながっていきました。

「安くて感じのいい人」より選ばれた男

ジョスカンがどれほど特別だったかは、1502年の一通の手紙が教えてくれます。

イタリアのフェラーラ公が宮廷の音楽家を探していたとき、家臣が公にこう報告しました。

イザークという作曲家のほうが人づきあいがよく、新作もどんどん書いてくれます、しかもジョスカンは200ドゥカートを求めていますが、イザークなら120で来てくれます、と。

人柄がよくて仕事が早く、給料も4割安いのですから、ふつうならイザークで決まりです。

ところが公が選んだのは、高くて気むずかしいジョスカンでした。

それでもこの人の曲がほしいと思わせる何かがあったわけで、500年前の人事の話なのに、読んでいて少し胸が熱くなります。

ジョスカンもこの公のために、とびきりの一曲を書いています。

当時はドレミの「ド」を「ウト」と呼んでいたので、ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラには、それぞれ母音がひとつずつ入っていました。

ジョスカンは公の名前「ヘルクレス・ドゥクス・フェラリエ」から母音(エ・ウ・エ・ウ・エ・ア・イ・エ)を取り出し、同じ母音を持つ音名に置きかえます。

こうしてできたレ・ウト・レ・ウト・レ・ファ・ミ・レ(今でいうレ・ド・レ・ド・レ・ファ・ミ・レ)が、ミサ曲全体の土台になったのです。

楽譜が印刷され、作曲家が「ブランド」になる

中世にも、14世紀のマショーのように名前の知られた作曲家はいましたが、作品の多くは作者名のないまま伝わっています。

それがルネサンス時代になると、作品に作曲者の名前が記される機会がぐんと増え、「ほかの人の作品と一緒にされたくない」という自我もはっきりしてきました。

作品が誰のものかわかれば評価にも差がつき、依頼が殺到する人気作曲家も現れます。

売れっ子に仕事が集中する今と同じ流れは、このあたりから出来上がっていたのですね。

3回刷りという執念

この流れに火をつけたのが印刷です。

1501年、ヴェネツィアのオッタヴィアーノ・ペトルッチが、多声音楽の楽譜としては知られているかぎり最初の印刷本『オデカトン』を世に出しました。

96曲を収めたこの本は、五線、歌詞、音符を1回ずつ、合わせて3回刷り重ねて作られています。

紙が少しでもずれれば、音符は線から外れて別の音になってしまいます。

それを1ページずつ3回合わせていったのですから、ほとんど執念の仕事です。

ペトルッチは生涯に61点の楽譜を出し、ジョスカンの名もこの印刷にのって各地へ広まりました。1528年にはフランスのアテニャンが1回で刷れる方法を始め、楽譜も音楽理論書も、ぐっと手に入りやすくなります。

売れすぎた名前の末路

こうして名前に値打ちがつくと、冒頭の皮肉の出番です。

ジョスカンは1521年に亡くなりましたが、その後も「ジョスカン作」の楽譜は出回りつづけ、どこかでジョスカンの名が付けられた曲は340曲あまりにのぼります。

ジョスカンの名で伝わった作品は340曲前後にのぼりますが、現在も帰属研究が続いています。

研究プロジェクトや分類基準によって数字は変わるものの、確実に本人の作品と言えるものはその一部で、疑わしい作品や他人の作品と考えられるものも非常に多くあります。

半分以上の曲で「本当にジョスカンなのか?」が問われているわけで、それだけ「ジョスカン」と書けば売れたということです。

作曲家の名前そのものに値打ちがついたことを、皮肉にも、にせものが証明しているわけです。

 

後期(1520〜1600年頃):ルネサンス音楽を否定!新時代の扉が開く

激動の16世紀、音楽も荒ぶる

16世紀に入ると、宗教改革をはじめヨーロッパは大きくゆれ動きます。

航海術や造船技術が発達し、香辛料などを求めて新しい交易路を探す船乗りたちが次々と大海原へこぎ出し、世の中は大航海時代のまっただ中にありました。

1543年には地動説まで発表されて、世界の見え方そのものがひっくり返ろうとしていたのです。

未知の大陸が見つかるかもしれない海に出ることは、さぞかし血が騒いだに違いありません。

現代でたとえるなら、ワープ航法で気軽に火星へ旅行できるようになった、あるいは生死のしくみが解明されて誰でも死後の世界へ行けるようになった、というくらいの衝撃だったのかもしれませんね。

そのスケールの大きさを背景に、社会はドラマティックなものや力強い表現を好むようになり、静けさと美しさを求めた中期までとは打って変わって、躍動感や迫力のある作品が増えていきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの作品を見比べると、この変化がわかりやすいですね。

音楽も少しずつ「調和」と「美」の世界から抜け出そうとし始め、中心地もフランスからイタリアへ移っていきました。

ヴェネツィアでは、サン・マルコ大聖堂のよく響く空間を生かし、2台のオルガンと2組の合唱がこだまのように呼びかけ合う形が生まれました。

これがのちの協奏曲の原型となり、ヴェネツィア楽派の代名詞になっていきます。

宗教改革が変えた「教会の歌」

激動の中心にあった宗教改革は、教会の音楽そのものも変えました。

1517年に教会のあり方を批判して改革を始めたマルティン・ルターは、それまでラテン語で歌われてきた聖歌を、信徒が自分たちの言葉であるドイツ語で歌えるようにしたのです。

1524年には、この新しい方針による最初の賛美歌集が出版されます。

礼拝に集まった人々がみんなで歌うこのドイツ語の賛美歌は「コラール」と呼ばれ、およそ200年後には、バッハがルター派コラールを数多く4声で和声づけました。

後世には「371の4声コラール」として有名な曲集まで作られ、現在も和声や対位法の教材として使われています。

教会の歌は、聖歌隊が歌うのを聴くものから、みんなで歌うものへと変わっていったわけです。

イギリスでは、印刷がまた別のドラマを生みました。

1575年、タリスとバードはエリザベス1世から、楽譜と五線紙の印刷を21年間独占できる権利を与えられ、2人で17曲ずつ、計34曲のモテット集を出版します。

ところが売れ行きは振るわず、2年後には「大きな損失になった」と女王に助けを求めることになりました。

歌詞が聞こえない!トレント公会議の本当の決定

ポリフォニーは磨かれるほど複雑になり、とうとう困った問題にぶつかりました。

声部がからみ合いすぎて、ラテン語の歌詞が聞き取れないのです。

美しい響きや音楽的な調和を追い求めるあまり、祈りの言葉が置き去りにされてしまったと言ってもいいでしょう。

宗教改革に対抗して、カトリック教会が立て直しのために開いたトレント公会議(1545〜1563)でも、教会音楽は話題にのぼりました。

「公会議がポリフォニーを禁止した」と説明されることがありますが、実際に決まった文面はずっと控えめで、「みだらなもの、不純なもの」がまじった音楽を教会から遠ざけるように、という内容にとどまっています。

ポリフォニーそのものを禁じる決定は、出ていないんです。

「パレストリーナが音楽を救った」は誰が言い出したのか

この話には、映画のような続きが語り伝えられてきました。禁止されかけたポリフォニーを救うため、ローマ楽派のパレストリーナが『教皇マルケルスのミサ曲』を書きました。

歌詞がはっきり聞こえるこの曲を聴いて、枢機卿(教皇を支える最高位の聖職者)たちは禁止を思いとどまった、という物語です。

出どころをさかのぼると1607年、アガッツァーリという音楽家の文章に行きつき、1828年には伝記作家バイーニがこれを劇的にふくらませました。

1565年に枢機卿たちがミサ曲を試しに聴く会を開いたことは教皇礼拝堂の日誌で確かめられますが、そこでこの曲が歌われたという記録はありません。

「救世主パレストリーナ」は、後の時代の人たちが育てた物語だった可能性が高いわけです。

それでも、6つの声部が言葉をそろえて歌う場面の多いこの曲が、伝説の主役に選ばれたのは無理もないと思えます。

完成した「美しく正しい書き方」と、その先

パレストリーナの音楽がよく「ルネサンスの完成形」と呼ばれるのは、響きの濁りを最小限におさえる書き方を、とことんまで磨き上げたからです。

不協和音はいきなり鳴らさず、前の和音から同じ音を引きのばして準備し、すぐに協和音へ解決させる、というように、使う場所と手順まで細かく決められていました。

音楽というより、複雑な倍音のパズルですね!

当時の作曲家の中にも、曲を作るというより、パズルを解いている感覚に近いというようなことを言った巨匠もいるそうです。

そうこうしてザルリーノが1558年に理論を整えたこともあって、なんと今から450年以上も前に、濁りのない美しい響きを生み出す書き方は、ほぼ完成してしまったのです。

この事実を知ったとき、私は大きな衝撃を受けました。

ところが、完成したものは、そこから先へ進みたい人にとって窮屈な枠にもなります。

詩の言葉に込められた喜びや悲しみ、怒りをもっとはっきり音で伝えたいという欲求が強まり、作曲家たちは決められた手順の外へ少しずつ踏み出していきました。

歌の主役をはっきりさせる:フロットーラからマドリガーレへ

その欲求がいちばん早く形になったのは、教会の外で歌われた世俗の歌でした。

15世紀あたりからイタリアで流行したフロットーラという歌は、すべての声部が対等なポリフォニーと違って、いちばん上の声部を主役の旋律にしていたのが特徴で、のちのモノディ様式の先がけと言える存在です。

このフロットーラが発展して、マドリガーレ(イタリア語の詩につけた多声の歌)が生まれます。

文学的な詩にメロディ主体の音楽を結びつけたので、音楽と言葉がぐっと近づき、歌詞の一語一語に合わせて響きを変えるような表現が競われるようになりました。

それまでのルネサンス音楽とは明らかに違うこの発想が、次の時代の主流になっていきます。

マドリガーレは楽譜の印刷にのって大流行し、その波は新しい書き手も生みました。

1568年にヴェネツィアで出版されたマッダレーナ・カズラーナの『4声のマドリガーレ集 第1巻』は、西洋音楽史で女性が出版した最初の作品集とされています。

彼女は献辞に、知性や芸術の才能は男性だけのものだと思い込む「男たちのむなしい誤り」を世に示したい、という意味の言葉を記しました。

こうしてマドリガーレでは、悲しい言葉には半音でずり落ちる旋律を、叫びの言葉には鋭い不協和音を当てるような、大胆な書き方をする作曲家が増えていきました。

なかでも、その表現を極端なところまで押し広げた人物がいます。

南イタリアの貴族ヴェノーザ公ジェズアルドは、1590年に妻とその愛人を手にかけながら、当時の裁判所では罪に問われなかったという、とんでもない経歴の持ち主です。

彼が1611年に出した曲集には半音でずれていく思いがけない和音が並び、同じような響きは19世紀後半までほとんど現れなかったと言われるほどでした。

カメラータと、ガリレオのお父さん

同じ「言葉を聞かせたい」という思いから、もっと過激な答えを出した人たちもいます。

フィレンツェのバルディ伯爵の家に集まった音楽家や知識人のサークル「カメラータ」で、集まりは1573年に始まり、1570年代後半から80年代初めにいちばん活発だったとされています。

よりどころは、古代ギリシアの劇はせりふではなく歌で演じられていた、という学者ジローラモ・メーイの考えでした。

前半で書いた「お手本のない復興」が、時代の終わりになってようやく音楽にもやって来たのです。

メンバーのヴィンチェンツォ・ガリレイは1581年に『古代音楽と現代音楽についての対話』を出してポリフォニーを強く批判しましたが、この人、あの天文学者ガリレオ・ガリレイのお父さんなんです。

「もっと歌詞を聞かせたい!」「もっと言葉で表現したい!」という彼らの思いから生まれたのが「モノディ様式」で、簡単な楽器の伴奏にのせて、ひとりが主役のメロディを歌います。

主役が歌詞をのせて感情を歌うのは今ではごく普通のやり方ですが、それが生まれたのは約400年前のこのときでした。

1598年頃にはこの形を使った音楽劇『ダフネ』が作られ、オペラの原型になります。

モノフォニー・ポリフォニー・ホモフォニーの違い

  • モノフォニー:伴奏のない、1本だけの旋律。初期のグレゴリオ聖歌がこれにあたり、歌に楽器が加わっても、同じ旋律をなぞっているならモノフォニーです
  • ポリフォニー:対等な旋律を何本も同時に重ねる音楽。決まった主役はいません
  • ホモフォニー:主役のメロディを、ほかの声部が和音で支える音楽。今のポップスもこの形です

16世紀末から17世紀初頭にかけて、従来のポリフォニーが盛んに作られ続ける一方で、フィレンツェを中心に、ひとつの旋律を和声的な伴奏が支える新しい音楽が急速に存在感を増していきました。

ルネサンス音楽は、ポリフォニーを極めながら、そのすぐ隣に次の時代の扉を開いて終わった、と言えるでしょう。

モンテヴェルディ、批判を受けて立つ

モノディ様式はイタリア中に広がり、それをさらに進化させたのがモンテヴェルディです。

彼は、歌詞の内容をよりドラマティックに表せるのなら、どんな不協和音でも型破りな手法でも使ってかまわない、という立場をとりました。

調和と静けさを大切にしてきたルネサンス音楽とは真逆ですね(笑)。

当然、黙っていない人が出てきます。

1600年、理論家アルトゥージは『現代音楽の不完全さについて』を出版し、モンテヴェルディのマドリガーレに出てくる不協和音を、規則違反だとして細かく批判しました。

じつはこのアルトゥージ、前期の章で登場したザルリーノの弟子で、師匠たちが整えた規則を守る側に立っていたのです。

彼が問題にしたのは、感情を表すことそのものではなく、不協和音を準備も解決もせずに鳴らすという、「美しく正しい書き方」の手順を破るやり方のほうでした。

これに対してモンテヴェルディは1605年の曲集で、自分は「第二の作法」で書いているのだと言い返しました。

1607年には弟が、ヴィラールトに始まりザルリーノが完成させた厳格な書き方を「第一の作法」、言葉を優先する兄の書き方を「第二の作法」と整理しました。

そのうえで、言葉は音楽の主人であって召し使いではない、とまで書いています。

その結果、モンテヴェルディの音楽は、歌詞がわからなくても「楽しい」のか「悲しい」のか「ユーモラス」なのかが伝わるほど、表情のはっきりしたものになりました。

なお、ここでいう不協和音は、あくまで16世紀当時の耳に不協和に聞こえた音のことです。

現代の耳にはそこまで濁って聞こえず、今の意味での不協和音の音楽が生まれるのは、まだ何百年も先の話になります。

批判した本も言い返した言葉も活字で残っているので、400年前のけんかを両方の言い分から読めるんです。

ペトルッチの3回刷りから100年、印刷はとうとう音楽の論争まで運ぶようになっていました。

 

和声学の禁則がピンとこないのは、なぜ?

禁則のふるさとは、ルネサンスの「美しく正しい書き方」

音大や専門学校で和声学を学ぶと、「連続5度・連続8度は禁止」「不協和音は準備して解決する」といった禁則(してはいけない書き方)をたくさん習います。

その背景には、中世から発達してきた対位法の考え方があります。

とくに声部の独立、不協和音の扱い、完全5度・8度の連続を避ける書法は、ルネサンス期に高度に洗練され、後世の対位法教育へ受けつがれていきました。

1725年にはフックスが、パレストリーナの様式をお手本にした対位法の教本『グラドゥス・アド・パルナッスム』を出版します。

この教本はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンら後世の作曲家の対位法教育にも大きな影響を与えました。

和声学の教科書は、その禁則を受けつぎながら、バロックから古典派、ロマン派初期にかけての長調・短調の和音進行を学ぶように作られています。

つまり和声学の規則は、ルーツはルネサンス、目指す響きは18〜19世紀という、二重に「昔の音楽」の文法なんです。

今の耳は、400年分の「規則破り」に慣れている

一方、今の学生がふだん聴いているポップスやロック、映画音楽は、モンテヴェルディが「第二の作法」で扉を開いてから、400年かけて規則を破り、広げてきた先にあります。

ロックのパワーコードは連続5度そのものですし、ジャズやポップスのおしゃれな和音には、和声学なら「解決しなさい」と言われる不協和な音が、解決しないまま鳴っています。

そんな耳で禁則を習えば、「どうしてダメなの?そのほうがカッコいいのに」と感じるのは当然ですよね。

私が教えている学生にも、和声学に意味を見いだせずにいる人がたくさんいます。

禁則は「法律」ではなく「効果の説明書」

ただ、禁則は「破ると罰せられる法律」ではなく、「こう書くとこう聞こえる」という効果の説明書だと考えると、見え方が変わります。

たとえば連続5度が禁止されるのは、2つの声部が溶け合って1本に聞こえてしまい、4つの声部がそれぞれ独立して歌う響きが崩れるからです。

逆にロックでは、その「溶け合って太く聞こえる」効果がほしいので、わざと連続5度を使っています。

モンテヴェルディが「第二の作法」を名乗れたのは、「第一の作法」を誰よりもよく知っていたからでした。

規則を知っていれば、破ったときに何が起きるかを狙って書くことができます。

和声学で習う禁則は、そのための何百年分の「こう書くとこう聞こえる」の記録なんです。

 

ルネサンス音楽の主な作曲家

作曲家 時期・地域 どんな人か
ジョン・ダンスタブル(1390頃〜1453) 前期・イギリス 3度・6度の響きで大陸の作曲家に影響を与えた「イギリスふう」の本家
ギヨーム・デュファイ(1400頃〜1474) 前期・ブルゴーニュ楽派 3つの要素を融合させた立役者。1436年の大聖堂の献堂式の曲を書いた
ジル・バンショワ(1400頃〜1460) 前期・ブルゴーニュ楽派 デュファイと並んで「イギリスふう」を取り入れたと詩に歌われた
アントワーヌ・ビュノワ(1430頃〜1492) 前期・ブルゴーニュ楽派 ブルゴーニュ公に仕えた作曲家で、『オデカトン』にも作品が収められた
ヨハネス・オケゲム(1410頃〜1497) 中期・フランドル楽派 広い音域の低音を書き、どの旋法(音階の種類)でも歌えるミサ曲などの技巧作も残した
ジョスカン・デ・プレ(1450頃〜1521) 中期・フランドル楽派 通模倣様式を完成させた、時代を代表するスター
ハインリヒ・イザーク、ヤーコプ・オブレヒト 中期・フランドル楽派 ジョスカンと同時代の大家。イザークはフェラーラの手紙に出てくる「安いほう」
アドリアン・ヴィラールト 後期・ヴェネツィア楽派 ヴェネツィア楽派の基礎を築き、「第一の作法」の源流とされた
チプリアーノ・デ・ローレ 後期・ヴェネツィア楽派 マドリガーレで大胆な表現を切り開いた
ジョヴァンニ・ガブリエリ 後期・ヴェネツィア楽派 合唱と楽器が呼び交わす、華やかなサン・マルコの音楽で知られる
オルランド・ディ・ラッソ 後期・フランドル楽派 ミュンヘンの宮廷を拠点に、宗教曲から世俗曲まで膨大な作品を残した
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ 後期・ローマ楽派 対位法の第一人者。『教皇マルケルスのミサ曲』の作者
モラーレス、ゲレーロ、ビクトリア 後期・スペイン スペインの教会音楽を代表する作曲家たち
ロボ 後期・ポルトガル ポルトガルの教会音楽を代表する作曲家
トマス・タリス、ウィリアム・バード 後期・イギリス 楽譜印刷の独占権を得た2人。タリスには40声部の大作もある
ジャケス・デ・ヴェルト 後期・イタリア マントヴァの宮廷で活躍したマドリガーレ作曲家
ルカ・マレンツィオ 後期・イタリア 16世紀後半を代表するマドリガーレの名手
カルロ・ジェズアルド 後期・イタリア 極端な半音の和音で知られる、波乱の生涯の作曲家
クラウディオ・モンテヴェルディ 後期〜バロック・イタリア 「第二の作法」でバロックへの扉を開いた

ルネサンス音楽の楽器と、まず聴いてほしい5曲

声が主役、でも楽器も鳴っていた

ルネサンス音楽は声楽が中心だったので、器楽はあまり盛んではありませんでした。

とはいえリュートやヴィオール、リコーダー、オルガンなどはたくさん演奏されていて、歌詞のついた曲を楽器だけで演奏することもあり、いろいろなアレンジや楽しみ方があったようです。

物語を知ってから聴く5曲

  • デュファイ『ばらの花が先ごろ』:1436年、巨大ドームの下で鳴りひびいた曲。4回くり返される聖歌の旋律が、6:4:2:3の土台です
  • ジョスカン『アヴェ・マリア…清らかなおとめ』:冒頭で4つの声部が順番に同じ旋律を歌い出す、通模倣様式のお手本のような一曲です
  • パレストリーナ『教皇マルケルスのミサ曲』:伝説の主役。グロリアで全員の言葉がそろう瞬間に耳をすませてみてください
  • タリス『我、汝のほかに望みなし』:40の声部のために書かれた、ポリフォニーの限界に挑んだような作品です
  • モンテヴェルディ『つれないアマリッリ』:アルトゥージに批判された問題作。どの音が「規則違反」だったのか、探しながら聴くのも楽しいはずです

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まとめ:「響き」の時代から「言葉」の時代へ

ルネサンス音楽の200年は、海を渡ってきた甘い3度の響きに詩人が驚いたところから始まり、その響きを支える調律や理論、4つの声部による豊かな和音が整っていった時代でした。

そして最後には、歌詞をどう聞かせるかをめぐる大げんかの中から、「メロディ重視の音楽」と「物語を表現する音楽」が力を持ち、次のバロック時代にオペラを大きく育てる原動力になります。

ただ、ポリフォニーがそこで捨てられたわけではなく、モンテヴェルディ自身も古い書き方と新しい書き方を使い分けていました。

年表では一本の線に見える変化も、手紙や批判書を読んでいくと、値切られたり、名前を勝手に使われたり、言い争ったりしながら進んでいたことがわかります。

その他の主な、クラシックの時代を知ろう!

クラシック全体を見わたせるようになると、音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。

よかったら、ほかの時代もあわせて読んでみてくださいね。