
ショパン、リスト、シューマン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー。
音楽の教科書に載っている作曲家を思い浮かべると、その大半が19世紀の「ロマン派」に入ります。
西洋音楽史のなかでもっともドラマティックな音楽が生まれ、いまも世界中のコンサートの中心にあるのがこの時代です。
ところが「ロマン派」という言葉の出どころをたどっていくと、意外な名前に行き当たります。
1810年に、ある批評家が「純粋にロマン的な作曲家」と呼んだ相手は、ショパンでもシューマンでもなく、いまでは古典派の代表とされているベートーヴェンだったんです。
古典派とロマン派は、教科書では別々の箱に入っていますが、当時の人たちはその境目をふつうに行き来していました。
この記事では、ロマン派が古典派から何を受け継ぎ、どこで型を破ったのかを一本の筋にして、当時の批評や手紙に残った生の言葉ものぞきながら特徴をたどっていきます。
目次
時代背景

ロマン派音楽とは、1800年代の初めから1900年ごろまで続いた音楽の流れのことで、19世紀をまるまる飲み込んで発展しました。
そのひとつ前の古典派の時代には、ものごとを理性で筋道立てて考えようとする「啓蒙主義」が重んじられ、芸術でも文学でも、調和がとれて均整のとれた美しさが追い求められています。
音楽でソナタ形式や交響曲といった整った型が生まれたのも、この流れのなかでした。
けれども理性や均整を重んじすぎると、規律や規則ばかりが増えて、だんだん窮屈になっていきます。
そこで18世紀の後半から19世紀の前半にかけて、古典主義に対抗する新しい考え方として現れたのが「ロマン主義」です。
ロマン主義は、「理想」「感性」「夢」といった人間がもともと持っている感情を重んじ、それを惜しげもなく表現することをよしとしました。
「個人の感情」を解禁することが新しい世の中をつくっていく、という改革的な発想ですね。
この考え方は音楽にも流れ込み、恋愛や情緒、喜びや不安、苦悩や憂鬱といった人間の感情や、日常を離れた世界をテーマにした名作が次々と生まれます。
「宗教や神」あるいは「貴族の娯楽」のための音楽が中心だったそれまでの時代から見ると、矢印はほぼ真逆の方向を向いたことになります。
「ロマン派」という名前は、どこから来たのか
1810年、ひとつの批評から始まった
音楽とロマン主義を最初にはっきり結びつけたのは、ドイツのE.T.A.ホフマンです。
小説家であり、オペラも書いた作曲家であり、のちには裁判官までつとめたという、ひとりで何役もこなした人でした。
そのホフマンが1810年、ライプツィヒの音楽新聞『一般音楽新聞』に、ベートーヴェンの交響曲第5番(いわゆる「運命」)の批評を書きます。
批評のなかでホフマンは、ベートーヴェンの音楽が聴く人のなかに「ロマン主義の本質である、果てしないあこがれ」を呼びさますと述べ、彼を「純粋にロマン的な作曲家」と呼びました。
しかも同じ文章で、ハイドンには子どものように朗らかな心を、モーツァルトには人間を超えた不思議なものを感じとり、この二人の音楽にもロマン的な精神を認めているんです。
つまり、いちばん最初の「ロマン派の名簿」に載っていたのは、いまの教科書で古典派とされている三人でした。
時代区分は後の時代の人が整理のために引いた線にすぎないのだと思うと、私はこの批評を読むたびに、クラシックの研究はやはり奥が深くて面白いなと思います。

ベートーヴェンは「境目」に立つ人
このためベートーヴェンは、古典派の完成者であると同時に、ロマン派の扉を開けた人としても語られます。
区切りの目安としてよく使われるのは、彼が亡くなった1827年です。
その翌年にはシューベルトも世を去り、1830年前後からはメンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、ベルリオーズといった1800年代生まれの世代がいっせいに表舞台へ出てきました。
たくさんの著名な作曲家が一度に花開いたこの時代は、まさに百花繚乱(いろいろな花が咲き乱れること)で、西洋音楽史のなかでもっとも華やかな時代が幕を開けたのです。
作曲家が、「職人」から「芸術家」へと進化する
雇い主は、宮廷から市民へ

中世からルネサンス、バロックの時代にかけて、音楽家が安定して活動を続けるには、宮廷や教会のお抱えになることが大きな近道でした。
宮廷や教会が音楽家の生活を支える大きな存在だったのです。
音楽で生きていくには、宮廷や教会からの注文どおりに仕事をこなす「音楽職人」になるのが王道で、一般の市民が音楽を職業にする道は、まだまだ限られていた時代でした。
ところが18世紀の後半になると、世の中が大きく動きます。
フランス革命で王族が倒されて市民が国の主役になり、産業革命によって、市民のなかにも経済的な力を持つ人が現れました。
力を持った市民は、ピアノやヴァイオリンを買って楽器を楽しみ、コンサートにも足を運ぶようになります。
そうなると楽譜が売れ、音楽を教える先生も必要になり、人気作曲家のコンサートには人が集まるので、お金をもらえる音楽の仕事の量が一気に増えました。
つまるところ、自分の曲がヒットすればたくさんお金が入ってくる時代になったわけです。
宮廷や教会の「音楽職人」として生きることが当たり前だった作曲家に、自分の作りたい音楽を追い求める「芸術家」として生きる道が大きく開けたのですから、個性的な作品づくりに没頭していくのも当然ですよね。
ピアノが家庭にやってきた

市民の家に入っていった楽器の代表が、ピアノです。
19世紀のピアノは鉄のフレームで強く張った弦を支えられるようになり、音量も音域もぐんと広がりました。
1821年にはパリの楽器メーカー、エラールが「ダブル・エスケープメント」という仕組みの特許を取り、鍵盤が戻りきる前に同じ音をもう一度打てるようになります。
リストの「ラ・カンパネラ」のように、同じ音をものすごい速さでくり返す曲は、この仕組みがあってこそ弾ける音楽です。
楽器の進化が作曲家の想像力に火をつけ、新しい曲がさらに新しい楽器を求めるという追いかけっこが、ロマン派の間じゅう続いていきました。
ロマン派音楽の、特徴と進化① 音そのものが変わった

「ロマン主義」は「古典主義」の反対語のように使われることが多いのですが、音楽の世界では、これがそのまま当てはまるわけではありません。
たしかにロマン派の作曲家たちは、古典派の「合理性」「形式」「秩序」を壊そうとしました。
それでも、古典派の時代に確立した機能和声(和音に「落ち着く」「緊張する」といった役割を持たせて音楽を進める仕組み)や、オーケストラ、交響曲といった器は、真剣に受け継いでいます。
古典派が生んだよいものを土台にしたうえで、表現する中身が「人間の感情」や「非日常」へと移っていった、というのが実際のところです。
古典派の時代に育ったオペラもロマン派で全盛期を迎え、大がかりなオーケストラ曲が次々に書かれました。まずは、その土台の上で音楽の中身がどう変わったのかから見ていきましょう。
標題音楽の隆盛
「幻想交響曲」は、台本つきの交響曲だった
標題音楽とは、曲に題名や物語をつけて、音楽以外のもの(物語、風景、絵画など)と結びつけた音楽のことです。
その流れを決定的に加速させたのが、1830年12月5日にパリ音楽院で初演された、26歳のベルリオーズの「幻想交響曲」でした。
この曲には、失恋した若い芸術家がアヘンを飲んで見た夢という筋書きが、作曲者自身の文章で添えられています。
第1楽章「夢、情熱」から第5楽章の魔女の宴まで楽章ごとに場面が説明され、恋人をあらわすメロディーが形を変えながら全楽章に現れる「固定楽想」という工夫も、この曲から広まりました。
ベルリオーズは1845年、この筋書きを「オペラの台詞(せりふ)のようなもの」と書き、音楽に性格を与える文章として扱うよう求めています。
ところが10年後の1855年には、「筋書きを配らずに、5つの楽章の題名だけを残してもかまわない」と言い直しました。交響曲はそれだけで音楽として十分に面白いはずだ、というのがその理由です。

作曲家の目で見る「標題」
私は曲を書く前に、まず「このシーンをどう彩るか」という演出を考えます。
その演出を音で形にするのが作曲だと考えているので、幻想交響曲を見ると、ベルリオーズは作曲の前に組み立てた演出を、台本ごと客席に手渡そうとした人に見えてきます。
のちに「題名だけで足りる」と言い直したことも、私には自然な流れに思えます。
演出が音のなかにしっかり溶けこんでいれば、聴く人は説明書きを読まなくても場面を感じとれるからです。
標題音楽と、次に出てくる絶対音楽の争いは、「演出を言葉で見せるか、音のなかに隠すか」の違いだった、と言いかえてもいいのかもしれません。
流出した宣言文
とはいえ当時は、交響曲に物語の説明書きを添えるやり方そのものが大きな物議をかもし、テーマ性の強い音楽を否定する人もたくさんいました。
その反対側に立つのが、音楽は音だけで成り立ち、音楽の外のものとは関わりを持たないとする「絶対音楽」です。
1854年には批評家ハンスリックが『音楽美論』を出し、音楽の美しさは音の動きそのものにあると主張して、絶対音楽の側の理論的な柱になりました。
論争はやがて、標題性を突き詰めたワーグナーやリストの陣営と、絶対音楽の頂点とされるブラームスを担ぐ陣営との対立として語られるようになります。
1860年には、27歳のブラームスが友人のヴァイオリニスト、ヨアヒムらと、リストたちの「新ドイツ楽派」に反対する宣言文を用意しました。
ところが署名を集めている途中で文章が外に漏れ、まだ4人分の署名しかない状態で、5月4日に相手側の雑誌『新音楽時報』にパロディ記事を書かれてしまいます。
本物の宣言文が別の新聞に載ったのは、その2日後のことでした。
のちに絶対音楽の頂点と呼ばれる大作曲家も、若いころは段取りの悪い抗議文で恥をかいていたわけで、私はこの話を知ってからブラームスにぐっと親しみを感じるようになりました。
メンデルスゾーンの「言葉では足りない」
標題か絶対かという議論には、もうひとつ面白い資料があります。
歌詞のないピアノ曲集「無言歌集」を書いたメンデルスゾーンは、1842年10月15日、それぞれの曲が何を意味するのかと尋ねてきた人に手紙で答えました。
その返事は、「私の好きな音楽が語っているものは、言葉にするにはあいまいすぎる思いではなく、反対に、はっきりしすぎている思いなのです」というものでした。
音楽はぼんやりしているから言葉で補うのだ、という考えをひっくり返したこの一文は、ロマン派の人たちが音楽にどれほど大きなものを託していたかを、どんな解説よりもよく伝えていると感じます。
調性の広がり
遠い調へ、ひとっ飛び

調性とは、「ハ長調」「イ短調」のように、曲がどの音を中心にまとまっているかを示す仕組みのことです。
調どうしの近さを円に並べた「五度圏(サークル・オブ・フィフス)」で見ると、となり合う調は使う音がひとつ違うだけです。
たとえばハ長調とヘ長調は、音階にすると1音しか違わない、とても近い関係にあります。
バロックや古典派の時代にも遠い調への転調はありましたが、ロマン派の作曲家たちは、その使い方をさらに大胆に広げていきます。
ハ長調から見て円のちょうど反対側にある変ト長調のような、いちばん遠い調へも飛べるようになり、調と調のあいだの垣根は限りなく低くなっていきました。
遠い調どうしは共通する音が少ないので、移った瞬間に、部屋の照明の色ががらりと変わるような効果が生まれます。
それまでの耳で聴いていた当時の人には、ずいぶんドラマティックに聞こえたのでしょうね。
ワーグナーとリスト、そして無調へ

ロマン派の作曲家たちは、バロックや古典派が確立した機能和声を捨てたのではなく、そこに半音階(ピアノの白鍵と黒鍵をすべて使う、半音きざみの動き)を持ち込んで、自分たちの言葉に作りかえようとしました。
その流れを行けるところまで押し進めたのが、ワーグナーとリストです。
1865年に初演されたワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は、冒頭の和音からしてどの調に落ち着くのかがはっきりせず、解決しないまま次の和音へと流れ続けます。
行き先の見えない響きが何時間も続くこの音楽は、調性という仕組みがどこまで伸びるのかを試す実験でもありました。
垣根がここまで低くなると、その先には垣根そのものを取り払う道が見えてきます。
20世紀に入ってシェーンベルクは、調の中心を持たない無調の音楽へ進み、さらに「十二音技法」を考え出しました。
オクターブの中にある12の音を、すべて一度ずつ使ってひとつの「音列」を作り、その順序や変形をもとに、特定の音が中心にならないようにする作曲法です。
私が十二音技法で味わった「失敗」

調性をぼかす手段として、私も十二音技法に取り組んだことがあります。
12の音をまんべんなく使えば調の中心は消えるはず、というのが理屈なのですが、実際に書いてみると、調がぼやけるどころか、細かな転調を次々にくり返す曲になってしまいました。
つまり、ねらいはうまくいかなかったわけです。
ところが、そのとき生まれた細かな転調は、平行和音(同じ形の和音を、形を保ったまま平行にずらしていく使い方)のような響きになっていて、それがいまの私の音楽の礎になりました。
調から逃げようとして、かえって調の手ざわりを深く知ることになったこの経験を振り返ると、ロマン派の作曲家たちの気持ちが少しわかる気がします。
彼らも機能和声を壊したかったのではなく、半音階で押し広げられるところまで広げてみた結果、その先に無調という崖が見えてしまったのではないでしょうか。
郷土愛、民族愛を謳った楽曲が増える
国民楽派の登場
ロマン派は約100年のあいだにあまりに多くの手法が試されたので、たくさんの流派や時期に分けて語られます。
そのひとつが、19世紀の中ごろから現れた「国民楽派」です。
ナポレオンの活躍と没落、そして各地の革命は人々の自我を刺激し、「自分たちはどの民族で、どの国の人間なのか」という意識を目覚めさせました。
その熱を受けて、とくにロシア、ボヘミア(いまのチェコ)、北欧で、自国の民謡や民族音楽の様式を作品の土台にする作曲家が現れます。
国民楽派という言葉が生まれる前から、ショパンは祖国ポーランドの踊りであるマズルカやポロネーズを、パリのサロンで弾き続けていました。
ふるさとを音にするという発想は、ロマン派のごく早い時期からすでに芽を出していたことになります。
「本業」は化学者や軍人だった
国民楽派の裏側をのぞくと、音楽の専門教育を受けたエリートばかりではなかったことがわかります。
ロシアで民族的な音楽をめざした5人の作曲家は、1867年に批評家スターソフから「力強い一団」と呼ばれ、日本では「ロシア五人組」として知られていますが、5人とも音楽院で本格的な作曲教育を受けたわけではなく、独学や仲間同士の研究を通じて作曲技術を磨いた人たちでした。
本業もばらばらで、ボロディンは化学者、キュイは陸軍の学校で要塞の造り方を教える技術将校でした。
リムスキー=コルサコフは海軍の士官で、3年がかりの世界一周航海のあいだに交響曲第1番を書き上げています。
ムソルグスキーも軍人から役人になり、森林を管理する役所に勤めながら作曲を続けました。
西ヨーロッパ流の音楽院で型を仕込まれていなかったからこそ、自分たちの国の響きをまっすぐ音にできた面があったのでしょう。
同じことはチェコのスメタナにも言えます。
チェコ国民音楽の父と呼ばれる彼は、ドイツ語を話す家庭で育ち、チェコ語をきちんと使いこなせるようになったのは30代も後半になってからでした。
スメタナは文法を学び直し、毎日チェコ語で書いて話すことを自分に課して、1864年にはチェコ語の新聞で音楽評論を担当するまでになります。
「民族の音楽」は、もともとそこにあったものというより、作曲家たちが意志を持ってつかみ取りにいったものだったんですね。
世界の民族音楽が取り入れられるようになる

ふるさとの音楽に目が向いた19世紀の後半は、遠い国の音楽が耳に届きはじめた時代でもありました。
1869年にはスエズ運河とアメリカの大陸横断鉄道が開通し、1873年にはジュール・ヴェルヌが小説『八十日間世界一周』を世に出します。
世界を80日で回れるという話が、もう絵空事ではなくなっていたわけです。
モーツァルトやベートーヴェンも、トルコ風の音楽などで民族音楽を取り入れてはいました。
ロマン派の後半になると、楽譜だけでなく演奏する人たちそのものが遠くからやってくるようになり、アジアやアフリカの響きやリズムを取り入れた曲も書かれていきます。
よく知られているのは1889年のパリ万国博覧会で、ここでドビュッシーは、ジャワ島の合奏音楽ガムランを現地の音楽家たちの演奏で聴きました。
のちのピアノ曲「パゴダ」(1903年)には、ガムランのように音が重なり合う響きが聴きとれます。
ただし、ガムランの音階や旋律をそのまま写した箇所は、ドビュッシーの作品からは見つかっていません。
ドビュッシーはガムランをそのまま借りるのではなく、耳の奥にしみこんだ響きとして、自分の音楽に溶かしこんでいたことになります。
世紀末、流れは枝分かれする
19世紀の終わりが近づくと、ロマン派の流れはいくつにも枝分かれしていきます。
フランスではドビュッシーが、はっきりした輪郭よりも響きの色あいを大事にする印象主義の音楽を確立しました。
ドイツ語圏では、ワーグナーの流れをくみながら新しい表現を求めた新ロマン主義の作曲家たちが、オーケストラをさらに巨大にしていきます。
こうした流れが重なり合いながら、音楽は20世紀の近代音楽、そして現代音楽へとつながっていきました。
ロマン派音楽の、特徴と進化② 音楽を取り巻く世界が変わった
ここまで見てきたのは、音楽の中身の変化でした。
ロマン派の面白さは、それと同じくらい、音楽を聴く場所や演奏する楽器、作曲家が背負うものまでががらりと変わったところにあります。
故人の楽曲がコンサートで演奏される
14歳の少年が受け取った楽譜
いまのクラシックのコンサートでは、亡くなった作曲家の曲が演奏されるのが当たり前です。
けれども1800年代の初めには、何十年も前に亡くなった作曲家の作品が、いまほど当たり前にコンサートで演奏される時代ではありませんでした。
作曲家が亡くなるとその曲も一緒に消えていくという、いまのポップスに近いイメージかもしれませんね。

この流れを変えたのがメンデルスゾーンです。
1823年か1824年ごろ、彼は祖母ベラ・ザロモンから、バッハの「マタイ受難曲」の筆写譜を贈られました。
15歳の誕生日の贈り物だったのではないかと言われています。
少年はこの楽譜を何年もかけて研究し、そのすばらしさに気づいていきます。
バッハが亡くなってから80年近く、曲が初演されてからは100年がたっていたので、周りからは、そんな古くて難しい曲にだれが興味を示すものかと危ぶまれていました。
大胆に「編集」された受難曲
それでも上演を後押ししたのが、ベルリンの王立歌劇場の歌手で、メンデルスゾーンの友人だったエドゥアルト・デフリントです。
彼はイエスの役を歌いたい一心で、二人で合唱団ジングアカデミーの指導者ツェルターのもとへ頼みに行きました。
こうして1829年3月11日、20歳のメンデルスゾーンの指揮で、ジングアカデミーのホールでの上演が実現します。
このとき演奏されたのは、バッハが書いたとおりの「マタイ受難曲」ではありませんでした。
メンデルスゾーンはアリア(独唱の歌)のうち10曲、およそ3分の1を削り、合唱曲もおよそ半分にあたる7曲を削っています。
その一方でコラール(会衆が歌う賛美歌ふうの合唱)はほとんど残したので、物思いにふける独唱が減り、受難の物語が前へ前へと進む、劇のような形に生まれ変わりました。
100年前の大作を、いまの聴衆に届く長さと流れに組み直したわけで、20歳にしてこの判断ができたことに私はうなってしまいます。
チケットはすぐに売り切れ、3月21日の2回目も満員となり、4月18日にはツェルターの指揮で3回目の上演が行われました。
クラシックコンサートの原型ができあがる

この成功をきっかけにバッハの音楽は復活を遂げ、バッハ以外にもたくさんの名作が眠っていたことを世の中が知るようになります。
各地のコンサートホールでバッハやベートーヴェンといった故人の曲がくり返し演奏されるようになり、現代につながるクラシックコンサートの文化が、さらに大きく育っていきました。
そうなると、作曲家は大変です。
故人の曲が後世に残るということは、自分の曲も残るかもしれないという喜びであると同時に、手本にしてきたバッハやベートーヴェンと同じ水準に届かなければ、自分の音楽は消えてしまうということでもあるからです。
「巨人の足音」は、本当に言われたのか
この重圧をもっとも重く受けとめたのが、ブラームスでした。
ブラームス自身は、交響曲第1番の完成までに21年かかったと語っています。
1855年に交響曲への挑戦を始め、試行錯誤を重ねた末、ようやく1876年に完成へたどり着いたのです。
初演を聴いた指揮者ビューローは、この曲を「ベートーヴェンの第10番」と呼びました。
ブラームスといえば、「背後に巨人の足音を聞きながら歩く気持ちが、君にはわからないだろう」という言葉がよく知られています。
巨人とはベートーヴェンのことで、多くの解説書やプログラムに引用されてきました。
ところがこの言葉の出どころは、ブラームスの死後に伝記を書いたカルベックの本だけで、ほかに裏づけとなる記録は見つかっていません。
カルベックには事実をゆがめたり作ったりした例があることから、この名言は作り話かもしれないと指摘する研究者もいます。
とはいえ、言葉が本物かどうかに関係なく、21年という歳月そのものが、ベートーヴェンの後に交響曲を書くことの重さを何より雄弁に物語っています。
楽器もオーケストラも、大きくなった
新しい楽器が次々と生まれる

ロマン派の響きが古典派より分厚く、色とりどりに聞こえるのは、楽器そのものが変わったからでもあります。
1814年にはドイツのシュテルツェルが、ホルンにバルブ(管の長さを切り替える装置)を取りつけ、金管楽器がどんな音階でもなめらかに吹けるようになっていきました。
1835年9月12日には、ベルリンの軍楽隊長ヴィープレヒトと楽器職人モーリッツがテューバの特許を取り、1846年6月28日にはアドルフ・サックスがサクソフォンの特許を取っています。
ワーグナーは「ニーベルングの指環」のために、ホルンとトロンボーンのあいだを埋める音色がほしくなり、のちに「ワーグナー・テューバ」と呼ばれる楽器まで作らせました。
その行き着いた先が、1910年9月12日にミュンヘンで初演されたマーラーの交響曲第8番です。
合唱850人を中心に、大編成のオーケストラと独唱者8人が加わり、出演者はおよそ1,000人にのぼりました。
「千人の交響曲」という呼び名は宣伝のために興行主が付けたもので、マーラー本人はこの呼び方をひどく嫌い、初演がサーカスの見世物のようになることを心配していたそうです。
スター演奏家と、熱狂するファン

楽器の性能が上がると、それを限界まで弾きこなす名人、いわゆるヴィルトゥオーソが時代の主役になります。
ヴァイオリンのパガニーニ、そしてピアノのリストがその代表でした。
リストの人気は、いまのアイドルと比べても引けを取りません。
1841年12月27日、ベルリンで最初の演奏会が開かれた場所は、12年前にマタイ受難曲がよみがえったのと同じジングアカデミーでした。
ここから聴衆の熱狂が度を越していき、詩人のハイネは1844年4月25日付の文章で、この騒ぎを「リストマニア」と名づけています。
ファンは彼のハンカチや手袋を奪い合い、切れたピアノの弦を腕輪にし、飲み残しのコーヒーを小びんに入れて持ち歩いたと伝えられています。
なかでも、リストが捨てた葉巻の吸いがらを拾い、ダイヤで「F.L.」と頭文字を飾ったロケットに入れていた女性の話は、何度読んでも圧倒されます。
ロマン派の名曲
名曲は色あせない
たくさんの作曲家が登場した華やかな時代ですから、名曲ももちろんあふれるほどあります。
すばらしい曲をすべて紹介したいところですが、とても書ききれないので、そのなかでも特におすすめしたい曲を聴けるサブスクを紹介したいと思います。
メンデルスゾーンがバッハをよみがえらせたように、すぐれた音楽は時間がたっても古びません。ロマン派の終わりごろには、その証拠のような録音も残されています。
1889年12月、56歳のブラームスは、ウィーンで滞在していた知人の家で、エジソンの助手ヴァンゲマンが持ちこんだ蓄音機の前に座りました。
録音の冒頭では、ヴァンゲマンが日付を告げたあとにブラームス本人が名乗る声が入っていて、続いて自作の「ハンガリー舞曲第1番」を縮めた形で弾いています。
雑音だらけの短い録音とはいえ、教科書の肖像画でしか知らなかった人の声と指の音がいまも聴けるわけで、ロマン派は遠い昔のようでいて、私たちと直接つながっている時代でもあります。
ロマン派の作曲家
ロマン派の主な作曲家を、おおまかな時期と流れごとに並べ、一人ずつ「何を変えた人か」を添えました。
区分の線は本によって少しずつ違うので、目安として見てください。
ロマン派の中心となった作曲家
初期ロマン派
- カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria von Weber)1786〜1826 ドイツ:1821年の歌劇「魔弾の射手」で、イタリア語が当たり前だったオペラの世界に、ドイツの森と伝説を描くドイツ語オペラの道を開きました。
- ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)1792〜1868 イタリア:「セビリャの理髪師」で一世を風靡しながら、「ウィリアム・テル」を最後に37歳でオペラの筆を折り、後半生は美食家としても名を残しました。
- フランツ・シューベルト(Franz Schubert)1797〜1828 オーストリア:「魔王」「冬の旅」など600曲を超える歌曲を書き、詩と音楽をひとつにした「歌曲の王」です。31歳の若さで亡くなっています。
中期ロマン派
- ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini)1782〜1840 イタリア:人間離れした技巧で「悪魔に魂を売った」とまでうわさされたヴァイオリニストで、その演奏を聴いた若きリストに「ピアノのパガニーニになる」と決意させました。
- エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)1803〜1869 フランス:「幻想交響曲」で標題音楽の扉を開き、楽器の組み合わせ方を体系的にまとめた『管弦楽法』も著して、オーケストラの響きそのものを作品の主役にしました。
- フェリックス・メンデルスゾーン(Jacob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy)1809〜1847 ドイツ:17歳で「真夏の夜の夢」序曲を書いた早熟の天才で、マタイ受難曲の復活上演に加え、1843年にはライプツィヒ音楽院を創設しました。
- フレデリック・ショパン(Frédéric François Chopin)1810〜1849 ポーランド:作品のほとんどをピアノのために書いた「ピアノの詩人」で、マズルカやポロネーズに祖国ポーランドへの思いを込め続けました。
- ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)1810〜1856 ドイツ:作曲家であると同時に、1834年に音楽雑誌『新音楽時報』を創刊した評論家でもあり、若きショパンやブラームスをいち早く世に紹介しました。
- クララ・シューマン(Clara Schumann)1819〜1896 ドイツ:ロベルトの妻で、当時ヨーロッパを代表するピアニストでした。自らピアノ協奏曲なども書き、夫やブラームスの作品を演奏会で広めています。
後期ロマン派
- フランツ・リスト(Franz Liszt)1811〜1886 ハンガリー:「リストマニア」を巻き起こした超絶技巧のピアニストで、作曲家としては詩や絵画を一つの楽章で描く「交響詩」を生み出しました。
- リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)1813〜1883 ドイツ:音楽・詩・舞台をひとつにした「楽劇」を打ち立て、4晩かけて上演する「ニーベルングの指環」のために、自分専用の劇場までバイロイトに建てました。
- ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)1813〜1901 イタリア:「椿姫」「アイーダ」などでイタリア・オペラの頂点を築き、ワーグナーと同じ年に生まれたライバルとしてよく並べて語られます。
- セザール・フランク(César Franck)1822〜1890 ベルギー:パリでオルガニストとして活躍し、同じ主題を全楽章に登場させる「循環形式」を使った交響曲ニ短調で知られています。
- アントン・ブルックナー(Anton Bruckner)1824〜1896 オーストリア:教会のオルガニスト出身で、大聖堂のように巨大な交響曲を書き、同じ曲を何度も書き直したことでも有名です。
- スティーブン・フォスター(Stephen Collins Foster)1826〜1864 アメリカ:「おお、スザンナ」「草競馬」などで知られる「アメリカ音楽の父」で、ヨーロッパのロマン派とは別の場所で、大衆の歌を生み出しました。
- ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)1833〜1897 ドイツ 新古典派:標題に頼らず形式の美しさを追求した絶対音楽の旗手で、交響曲第1番に21年をかけた慎重さは、ベートーヴェンへの敬意の深さの表れでもあります。
- カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns)1835〜1921 フランス:「動物の謝肉祭」の作曲者ですが、この曲を軽い冗談のつもりで書いたため、「白鳥」以外は生きているあいだの出版を許しませんでした。
- ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)1838〜1875 フランス:歌劇「カルメン」の作曲者で、1875年の初演からわずか3か月後、作品が世界的な人気を得るのを見ることなく36歳で亡くなりました。
- グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)1860〜1911 オーストリア:ウィーン宮廷歌劇場の指揮者として活躍しながら、「千人の交響曲」をはじめ、ひとつの交響曲に世界のすべてを詰めこもうとする巨大な作品を書きました。
国民楽派
- ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana)1824〜1884 チェコ:ドイツ語で育ちながらチェコ語を学び直した「チェコ国民音楽の父」で、1874年に聴力を失ったあとも、「モルダウ」を含む連作交響詩「わが祖国」を書き上げました。
- アレクサンドル・ボロディン(Aleksandr Porfir’evich Borodin)1833〜1887 ロシア:本業は化学者で、研究の合間に「中央アジアの草原にて」や歌劇「イーゴリ公」(未完)を書いた「日曜作曲家」です。
- モデスト・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)1839〜1881 ロシア:役所勤めをしながら、ピアノ組曲「展覧会の絵」や歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」など、ロシアの土の匂いがする荒々しい音楽を書きました。
- ピョートル・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)1840〜1893 ロシア:独学の五人組とは違い、ペテルブルク音楽院で西欧流の作曲を学んだ人で、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などのバレエ音楽を芸術の域に高めました。
- アントニン・ドヴォルザーク(Antonín Dvořák)1841〜1904 チェコ:ブラームスに才能を見いだされ、のちにアメリカに渡ってニューヨークの音楽院の院長をつとめ、そこで交響曲第9番「新世界より」を書きました。
- エドヴァルド・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg)1843〜1907 ノルウェー:劇音楽「ペール・ギュント」やピアノ協奏曲で、北欧のフィヨルドや民謡の空気をヨーロッパ中に届けました。
- ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)1865〜1957 フィンランド:「フィンランディア」で祖国の独立への思いを代弁しましたが、晩年のおよそ30年間は大きな作品を発表せず、その沈黙もまた謎として語られています。
世紀末から次の時代へつながる作曲家
新ロマン主義
- エドワード・エルガー(Edward Elgar)1857〜1934 イギリス:行進曲「威風堂々」で知られ、長く「音楽のない国」とまで言われたイギリスに、久しぶりの国際的な作曲家として登場しました。
- ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)1858〜1924 イタリア:「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」などで、ヴェルディ後のイタリア・オペラを担いました。遺作「トゥーランドット」は未完のまま残されています。
- リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)1864〜1949 ドイツ 交響詩:リストが始めた交響詩を受け継ぎ、映画「2001年宇宙の旅」で使われた「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭は、誰もが一度は耳にしているはずです。
- アレクサンドル・スクリャービン(Alexander Nikolayevich Scriabin)1872〜1915 ロシア:音と色が結びついて感じられた作曲家で、交響曲「プロメテウス」には、色の光を投げかける「色光ピアノ」のパートまで書きこみました。
- セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vassilievich Rachmaninov)1873〜1943 ロシア:交響曲第1番の初演の失敗で深く落ちこんだあと、ピアノ協奏曲第2番で見事に復活した、ロマン派最後の巨匠とも呼ばれるピアニスト作曲家です。
- アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)1874〜1951 オーストリア:若いころは「浄められた夜」のような濃厚なロマン派の曲を書きましたが、やがて無調に進み、十二音技法を考え出して20世紀の音楽を大きく変えました。
印象主義・同時代の作曲家
- クロード・ドビュッシー(Achille Claude Debussy)1862〜1918 フランス:「牧神の午後への前奏曲」で、機能和声のルールにしばられない、響きの色あいそのものを楽しむ音楽を切りひらきました。
- グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)1874〜1934 イギリス:組曲「惑星」の作曲者で、なかでも「木星」の中間部の旋律は、日本でも歌に編曲されて広く親しまれています。
- モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel)1875〜1937 フランス:同じリズムをくり返しながら楽器を重ねていく「ボレロ」などで知られ、「オーケストラの魔術師」と呼ばれました。
新古典主義
- エリック・サティ(Erik Satie)1866〜1925 フランス:「ジムノペディ」のような、飾りをそぎ落とした簡素な音楽で、ロマン派の大げさな表現に背を向けました。
- オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi)1879〜1936 イタリア:「ローマの松」などのローマ三部作で知られ、古い時代の音楽を研究して自分の作品に生かしました。
古典派の意義
モーツァルトやバッハを聴いて物足りなく感じる人がいるとしたら、それはロマン派の時代に音楽があまりにも発展し、その響きに耳が慣れてしまって、バッハの音楽にも同じ刺激を求めているからかもしれません。
けれども、音楽がこれほど発展できたのは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった巨匠たちが確立した機能和声があったからこそです。
ロマン派はその機能和声をより装飾的にふくらませ、ときには逆に否定することで、音楽をさらに幅広く彩っていきました。
ホフマンがベートーヴェンを「ロマン的」と呼んだことを思い出すと、二つの時代は対立していたというより、ひと続きの長い坂道だったことがよくわかります。
だからこそバロックや古典派の音楽では、機能和声や音の重ね方といった基本をしっかり学ぶことができるんですね。
古典派を知ったうえでロマン派に戻ると、作曲家たちがどこで型を破ったのかが聴き取れて、同じ曲がもう一段深く楽しめます。
その他の主な、クラシックの時代を知ろう!
クラシック全体を見渡せるようになると、クラシック音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。もしよかったら、あわせて他の時代も知ってみてくださいね。
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