ロマン派時代の名曲8選|挫折と執念が生んだ傑作の裏側を、作曲家が解説します

1830年12月5日の夜、パリ音楽院のホール。

初演されたばかりの新作交響曲に客席は熱狂し、第4楽章にはアンコールの声まで飛びました。
失恋した芸術家が処刑される悪夢を描いた「断頭台への行進」——まだ26歳だった若き作曲家ベルリオーズの《幻想交響曲》です。

ロマン派の名曲には、こんな生々しい誕生の瞬間がいくつも残っています。

この記事では、失恋、21年の苦闘、死後の大逆転まで、8つの傑作を、作曲を仕事にしている筆者の目線で、生まれた現場から紹介します。

ロマン派音楽とは——作曲家が「芸術家」になった時代

クラシック音楽の歴史の中で、19世紀はよく「ロマン派の時代」と呼ばれます。

19世紀を中心に、ベートーヴェンが亡くなった1827年前後から20世紀初頭まで、大きく花開いた音楽です。

ショパン、リスト、ワーグナー、チャイコフスキー、ラフマニノフ——名前を聞いたことのある作曲家の多くが、この時代にひしめいています。

音楽が「注文品」ではなくなった

それ以前の作曲家は、教会や貴族に雇われて曲を納める、いわば職人でした。ところがフランス革命を経て貴族の力が弱まると、作曲家は演奏会の収入や楽譜の売り上げで生きる、独立した芸術家へと変わっていきます。

雇い主の注文ではなく、自分の感情や思想をそのまま音にできるようになったわけです。

恋の絶望も、祖国への想いも、死の恐怖も、ぜんぶ音楽にしていい。

この「自由」こそがロマン派の正体で、だからこの時代の名曲には、作曲家本人の人生が生々しく刻まれています。

曲の裏側を知ってから聴くと面白さが何倍にもなるのは、そのためなんです。

ピアノが家庭にやってきた

もうひとつの追い風が産業革命でした。ピアノが大量生産されて一般家庭に広まり、楽譜が売れる市場が生まれます。

ショパンのノクターンのような数分で弾ける小品が次々と書かれたのも、リストのような超絶技巧のスターが生まれたのも、聴き手と弾き手がこの時代に爆発的に増えたからでした。

音で「物語」を描いた名曲

ロマン派を語るうえで外せないのが標題音楽、つまりタイトルや筋書きを持ち、音で情景や物語を描く音楽です。

映像というものがまだ存在しない時代に、音だけでドラマを上映してみせた3曲を選びました。

ベルリオーズ《幻想交響曲》——失恋をそのまま交響曲にした男

  • 初演:1830年12月5日(パリ音楽院)

23歳のベルリオーズは、パリで観たシェイクスピア劇のオフィーリア役の女優、ハリエット・スミスソンに一目惚れします。手紙を送り続けても相手にされず、その絶望を叩きつけるように書き上げたのがこの曲でした。「失恋した芸術家がアヘンをあおり、奇怪な夢を見る」という筋書き付きの、全5楽章の交響曲です。

「恋人のテーマ」という発明

ベルリオーズはこの曲で、恋人を表す旋律を全楽章に登場させる「固定楽想(イデー・フィックス)」という手法を編み出しました。第4楽章では、断頭台に向かう行進の最後に恋人の旋律がふっと現れ、ギロチンの一撃を表す全合奏で断ち切られます。憧れの女神として現れた旋律が、終楽章では魔女の宴会で下品に歪められてしまう。人物にテーマ曲を付けて物語を進めるこの発想は、のちの映画音楽やゲーム音楽の原型と言っていいと思います。

初演の夜と、そのあとに起きた奇跡

初演の夜、ベルリオーズはこの奇怪な筋書きが誤解されないよう、あらすじを印刷した冊子を客席に配りました。結果、第4楽章にはアンコールの声が上がるほどの熱狂ぶりで、客席には若き日のリストもいて、すっかり心酔したと伝えられています。(リストはのちにこの大編成の交響曲を、ピアノ1台で弾ける形に編曲までしています)。一方で第3楽章は不評に終わり、ベルリオーズは翌年この楽章を大幅に書き直しました。初演の夜から、賛否も改訂もドラマも全部そろっていたわけです。

そして1832年の再演を、なんとスミスソン本人が客席で聴き、「恋人のテーマ」が自分のことだと気づくのです。ふたりは翌1833年に結婚しました(結婚生活は10年足らずで壊れてしまうのですが、それもまたロマン派らしい後日談です)。音楽史上もっとも大がかりなラブレターが、本当に届いてしまった瞬間でした。ここまで私情を作品にぶつけて、しかも歴史に残してしまうのだから、芸術家というのはつくづく業の深い生き物だと思います。

スメタナ《モルダウ》——聴こえない耳の中で、川は流れていた

  • 作曲:1874年 初演:1875年4月4日(プラハ)

チェコの作曲家スメタナは、祖国の大河ヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が、森の奥の小さな水源から堂々たる大河になるまでを音で描きました。2本のフルートが表す水のせせらぎが、やがて弦楽器の大きな流れに合流していく冒頭は、何度聴いても見事です。連作交響詩『わが祖国』、つまりオーケストラで祖国の風景と歴史を描いた6曲セットの、2曲目にあたります。

この曲が書かれたのは、スメタナが50歳で聴力を失った直後でした。本人の記録には、片耳の音程が狂って聞こえ始め、巨大な滝のそばに立っているような轟音が耳の中で鳴り続けた、という症状が残されています。その状態でこの透明な川の音楽を書き上げ、翌1875年、指揮者チェフによるプラハでの初演は聴衆にも批評にも熱狂的に迎えられました。聴力を失ってなお書き続けた点でベートーヴェンと並べて語られる人ですが、現実の音をすべて奪われた頭の中で、故郷の川だけが澄んで流れていた。作曲とは結局、頭の中で音を鳴らす仕事なのだと、この曲を聴くたびに思い知らされます。

ワーグナー《ワルキューレの騎行》——映画音楽の、遠いご先祖さま

  • 初演:1870年6月26日(ミュンヘン)

空を駆ける戦乙女たちを描いたこの曲は、上演に4晩かかる超大作オペラ『ニーベルングの指環』の一部です。どれほどの大作かというと、『ワルキューレ』だけでも台本の完成が1852年、音楽の完成が1856年で、4部作全体の構想から全曲初演までには四半世紀近くを費やしています。ワーグナーは登場人物や剣、運命といった要素のひとつひとつに短いテーマ旋律を割り当て、その組み合わせで物語を語る「ライトモティーフ」という技法を確立しました。キャラクターごとにテーマ曲がある——現代の映画やゲームで当たり前にやっていることの、これが源流です。

初演のいきさつがまた強烈で、ワーグナー本人は4部作がそろってから上演したかったのに、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世が待ちきれず、作曲者の意に反して指揮者ヴュルナーの手でミュンヘン初演が強行されました。王は熱烈すぎるファンだったんです。ワーグナーはその後、理想の上演のために自分専用の劇場をバイロイトに建て、1876年にようやく4部作の全曲初演を果たします。ちなみにこの「騎行」が映画『地獄の黙示録』のヘリコプター襲撃シーンで鳴り響いたのは有名な話で、100年前の楽劇が20世紀の戦争映画を乗っ取った瞬間でした。

大失敗と挫折から生まれた名曲

名曲は順風満帆に生まれるとは限りません。むしろロマン派の傑作には、ボロボロの敗北から立ち上がった曲が目立ちます。

ブラームス《交響曲第1番》——構想から完成まで21年

  • 初演:1876年11月4日(カールスルーエ)

ブラームス本人の言葉によれば、この曲はスケッチから完成まで21年かかっています。理由はただひとつ、ベートーヴェンでした。あの9曲の交響曲のあとに、いったい何を書けばいいのか。巨人の足音を背後に聞きながら交響曲など書けない、という意味の言葉を漏らしたとも伝えられています。

二十歳で背負わされた、重すぎる看板

このプレッシャーには、はっきりした出どころがあります。1853年の秋、20歳の無名のブラームスがデュッセルドルフのシューマン夫妻を訪ねて自作を弾いたところ、シューマンは深く感銘を受け(最初ひとりで聴き始めたのに、途中で止めて妻クララを呼びに行ったと伝えられています)、その月のうちに音楽雑誌へ「新しい道」と題する評論を発表しました。新しい時代を担う天才が現れた、という全国への宣言です。20歳でドイツ音楽の未来を背負わされた青年が、看板に見合う交響曲を出せるまで20年以上沈黙したのは、臆病ではなく誠実さだったのだと思います。

書いては直しを繰り返し、完成したときブラームスは43歳になっていました。初演の指揮台に立ったのは友人の指揮者デッソフで、そして初演を聴いた名指揮者ハンス・フォン・ビューローが、この曲を「ベートーヴェンの第10交響曲」と呼びます。プレッシャーの元凶だった名前が、そのまま最大の賛辞に変わったわけです。締切に追われながら曲を書いてきた身としては、21年間ひとつの曲と向き合い続けた胆力に、ただただ頭が下がります。

チャイコフスキー《白鳥の湖》——作曲者は、成功を知らずに死んだ

  • 初演:1877年3月4日(モスクワ・ボリショイ劇場)

いまやバレエの代名詞ともいえるこの作品、実は初演の評判は散々でした。当時バレエ音楽は格下の「職人仕事」とみなされていて、チャイコフスキー自身も友人の作曲家リムスキー=コルサコフへの手紙で、引き受けたのはお金のためと、前からこの種の音楽を書いてみたかったからだ、という意味のことを打ち明けています。そして振付も踊り手も、一流作曲家の凝った音楽についていけませんでした。それでも41回は上演されたので客が入らなかったわけではないのですが、評価されないまま1883年に劇場の演目から消えました。

転機が訪れたのは、作曲者の死後です。1895年、名振付家プティパとイワノフが全面改訂した版がペテルブルクで上演され、歴史に残る大成功を収めました。このとき台本も書き直され、初演版では「オデットの継母」だった悪役が魔法使いロットバルトに変わるなど、物語まで生まれ変わっています。主役のレニャーニが披露した32回転の連続回転(グラン・フェッテ)は、今も全幕最大の見せ場として受け継がれています。チャイコフスキーは1893年に亡くなっているため、世界中で愛される『白鳥の湖』の姿を、本人だけが知りません。

ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番》——どん底からの、完全復活

  • 初演:1901年(モスクワ)

1897年、ラフマニノフが満を持して初演した交響曲第1番は、音楽史に残る大惨事になりました。会場にはリムスキー=コルサコフら大物音楽家が顔をそろえていたのに、指揮者グラズノフの準備不足がたたって演奏は崩れ(当日酔っていたという証言まで残っています)、批評家キュイには「地獄に音楽院があったらこの曲が一等賞だ」という趣旨の酷評を書かれます。キュイはご丁寧に、この交響曲の作品番号が不吉な「13」であることまで皮肉りました。ラフマニノフは客席にいられず、階段に隠れて耳をふさいでいたのです。

謎の名医、ダーリ博士

それから約3年間、彼はほとんど曲が書けなくなります。救ったのは精神科医ニコライ・ダーリの暗示療法だった——と多くの解説に書かれています。実際、催眠暗示だけでなく、対話や心理的な支えも治療に含まれていたとされます。ただし、それぞれが回復にどこまで役立ったのかは、今もはっきりしていません。確かなのは、治療後に完成したこの協奏曲が大成功を収め、その楽譜にダーリへの献呈が記されていることだけです。

復活の響きは、後世のポップスにまで届いています。エリック・カルメンの世界的ヒット『オール・バイ・マイセルフ』は、この協奏曲の第2楽章を下敷きにした曲です。冒頭、鐘の音を思わせるピアノの和音が、少しずつ強く、深くなっていきます。あれはどん底の底から響いてくる復活の鐘なんだと思って聴くと、最初の数小節だけでもう泣けてきませんか。

ピアノを「別の楽器」に変えた名曲

リスト《ラ・カンパネラ》——嫉妬から生まれた超絶技巧

  • 最終版の改訂:1851年

1830年代の初め、20代になったばかりのリストはパリで、悪魔に魂を売ったと噂されたヴァイオリニスト、パガニーニの演奏に打ちのめされます。パガニーニのパリ登場は街中が熱狂する大事件で、批評家から「この楽器で彼に並ぶ者はかつて存在しない」と断言されるほどでした。残された手紙には、3度や6度、オクターブといった基礎練習を1日4〜5時間叩き込む鬼気迫る日々が綴られていて、「ピアノのパガニーニになる」と叫んだという逸話まで残っています。天才が天才に嫉妬して、化けた瞬間です。

こうして磨き上げられたのが、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番の終楽章、独奏と小さな鐘が掛け合う「鐘のロンド」を素材にした《ラ・カンパネラ》でした。面白いのは、1838年の版があまりに難しすぎて、1851年の最終版では音を大胆に間引いていることです。音を足すのではなく削ることで、鐘の響きの透明感を出す方向に舵を切った。技巧の権化みたいな曲が実は「削る勇気」で完成しているというのは、曲を書く人間にはぐさりと刺さる話ですよね。

ショパン《幻想即興曲》——本人は、世に出すつもりがなかった

  • 出版:ショパンの死後(遺作・作品66)

日本でもっとも有名なショパン作品のひとつですが、本人は生前これを出版しませんでした。自作に極端に厳しかったショパンは、納得のいかない楽譜を世に出すことを嫌い、未発表の原稿は処分してほしいと望んでいたとも伝えられます。それでも死後、友人フォンタナの手で出版され、結果として代表作のひとつになってしまいました。

このフォンタナという人がまた献身の人で、祖国ポーランドの蜂起に加わって亡命した学生時代からの友であり、パリではショパンの楽譜の浄書から出版社との交渉、生活の世話までを引き受けていました。ショパンの死後、遺族が未出版作品の整理と出版を託したのも、この信頼あってのことです。なぜ本人が出版しなかったのかは今も分かっておらず、ほかの作曲家の曲と似ているのを気にしたという説などがあるものの、決め手は見つかっていません。本人が隠したかった曲を、世界中の人が今も弾き続けている——音楽の歴史には、こういう皮肉な巡り合わせが時々あります。

ロマン派は「現代エンタメ音楽」の母です

キャラクターにテーマ曲を付ける。音で風景や物語を描く。

主人公の挫折と復活をドラマチックに歌い上げる——ここまで読んできた8曲の手法は、そっくりそのまま、現代の映画音楽やゲーム音楽が毎日やっていることなんです。

ロマン派の作曲家たちは、映像が存在しない時代に、音だけでサウンドトラックを作っていた人たちでした。

その橋渡しを象徴する記録も残っています。ブラームスは1889年、発明王エジソンの代理人の求めに応じて、自作のハンガリー舞曲を蓄音機に録音しました。

ロマン派最後の巨匠が、録音という新時代の入り口に立ち会っていたわけです。

彼らの音楽はレコードへ、映画へ、そしてゲームへと受け継がれ、今もあなたのイヤホンの中で鳴り続けています。

まとめ:物語を知ってから、もう一度聴いてみてください

ロマン派の名曲は、メロディだけ聴いても十分に美しいものです。

ただ、失恋や聴力の喪失、21年の苦闘や死後の大逆転といった物語を知ってから聴くと、同じ音がまったく違う重さで響いてきます。

今回の8曲は、どれも動画サイトや音楽アプリで気軽に聴けます。

まずは気になった1曲の「裏側」を思い浮かべながら、再生してみてください。200年前の誰かの人生が、音になってそこにあります。