中世音楽(中世西洋音楽)

時代背景

西洋音楽(クラシック)において、その入り口は「中世音楽」と言われています。

ではなぜ、中世音楽がクラシックの入り口なのでしょうか?

それには明確な理由があって、最も古い楽譜が存在するのがこの中世音楽時代だからです。

つまり、これより古い時代の楽譜がないので、これ以上クラシック音楽をさかのぼることができないんですね。

もちろん中世音楽以前にも、”音楽”は存在しましたが、譜面がないので当時の音楽がどんなものだったか全く分からないのが現状です。

なので、現代の我々が知ることができるクラシックの入り口は、”中世音楽”の時代と定義づけられることとなりました。

それでは、壮大なクラシックの入り口である中世音楽の世界から解説をしていきましょう!

中世音楽を理解するには、まずその時代背景を頭に入れると一気に理解が早くなります。

また、中世音楽の中心地はフランスであったことを頭に入れておいてくださいね。

教会と音楽

市民の生活

まず、この頃はキリスト教が世の中の中心で、教会が市民の生活の全てを支配する時代でした。

でも、現代では「教会支配」と言ってもイマイチピンときませんね。先に教会支配はどんな世の中だったかを説明しておきましょう!

当時、娯楽などほどんとなく、科学もほとんど発展していなかった時代でした。人々は天変地異に恐怖を覚え、明日生きることすらままならない「死」を恐れる毎日です。

そんな中教会は、「キリスト教信者にさえなれば、日々の生活や死後を教会が保護します。」と詠い布教活動をします。平和と喜びに満ちた神のいる「天国」の存在を教えたのです。

市民は、毎日の恐怖から逃れることができる天国に、この世のものとは思えない魅力的な世界に感じたことでしょう。

そうやって何万、何十万と爆発的に信者を増やしたキリスト教(教会)は、信者を「破門」や「神の怒り」などを武器に市民を脅し、巨大な富と権力を得ることとなります。

そうなると、人権、教育、法律等、市民の日常のすべてを牛耳ることができるようになりますね。生活の全てに教会が絡んでくるのです。

教会が思想や学問を支配しているため、市民は自由な考えや表現も許されることができず、ただひたすら「神の教え」に忠実に生きていくということになりました。

これが教会支配と言われる世の中です。

キリスト教と音楽

また、この教会の権力は11世紀~13世紀頃にピークに達します。

そして、教会がその力を見せつけるために、また更なる新しい信者の獲得のために、豪華な教会をつくったり荘厳な音楽を作っていきました。

教会(キリスト教)は、音楽にかなり重点をおいていたので、キリスト教と音楽の歴史は切っても切れない縁となってゆきます。

中世の音楽は、強大な権力と資金を握る教会主導のもと、急激な進化を遂げてゆきます。

まずその入り口となるものが、「グレゴリオ聖歌」ですね!


中世音楽の、特徴と進化

グレゴリオ聖歌の成立

誕生の歴史

グレゴリオ聖歌を理解するためには、まずはそれを定めたローマ帝国について知らなければなりません。

ローマ帝国は、1~2世紀を全盛期に長い期間繁栄した国家でした。しかし、その国力に陰りが見かけてきた4世紀頃、新しい土地を求めたゲルマン人が大移動を開始し、ローマ帝国の国土を脅かし始めます。

ローマ帝国はその勢力に対抗するため、何とかしてこの危機を乗り切ろうとします。

そこで目をつけたのが、国内で急速に信者を増やしていたキリスト教でした。

ローマ帝国は何百年もキリスト教を迫害していたのに、国民を味方につけ士気をあげるため、何とキリスト教を国教にしてしまいます!

それほどこの危機が切迫しいて、どうしても国民を味方につけなければならなかったのですね。

当時としては大英断だったと思います。

そして、各地で歌われていたキリスト教の聖歌や典礼を統一し、全国民をまとめようとします。

でも聖歌は、広大なローマ帝国のそれぞれの土地独自の言葉によって音楽が歌われていたので、すぐには統一はできませんでした。

シリア聖歌、アルメニア聖歌、コプト聖歌、アビシニア聖歌、ビザンツ聖歌など、様々な種類がありました。

そして、、、かなり長い年月がかかりますが、、、ようやく統一に成功します!

こうしてできあがったのが「グレゴリオ聖歌ですね。

そして、4世紀から10世紀にかけて爆発的に信者を増やしたキリスト教は、ギリシャローマだけでなく、ヨーロッパ中に幅広く普及することとなりました。

野球でも、阪神が勝った時に歌う「六甲おろし」が、県や地域によって違う曲だったら阪神ファンは全国的にまとまりにくいですよね。全国民が「六甲おろし」を歌うからより阪神ファンが全国で結束しやすくなるのと同じですね笑

グレゴリオ聖歌ってどんな音楽?

グレゴリオ聖歌は、本当に音楽の基になるもので、単旋律で無伴奏でした。

ここで重要なことは、グレゴリオ聖歌は「ハモり」が無いということです。

ほんの1000年前まで「和声」という概念すらなかったんですね。なのでもちろん「伴奏」なんてありません。

ハモりがないだけでなく、「リズム」や「拍子」という概念もこの頃はほとんどありません。一つの音符の拍の長さも明確に決まっているわけではなく、3拍子に聞こえるような、4拍子にも聞こえるような、この曖昧さがグレゴリオ聖歌の特徴でもあります。

これらの聖歌は、「ネウマ」と呼ばれる、現在の5線譜の元となる原始的な譜面に記録されるようになりました。

単旋律で無伴奏というシンプルさに加え、現在、再現できる最も最古の音楽ということで、すべてのクラシックの原点と考えられています。

何人、何十人といる聖歌隊が、深く壮大に反響する教会や修道院の構造を生かし、薄暗く光るステンドグラスや壁画の中、荘厳な神の音楽を奏でていったのです。

娯楽やメディアなどほとんど無い当時としたら、いかにそれが印象的で、非日常的に神々しかったか想像に難しくありませんね。

教会旋法(チャーチモード)の普及

グレゴリオ聖歌が発展していく中で8つの旋法が成立することとなります。この旋法は後世に根強く残り、アイオニアン(長調)、エオリアン(短調)は、現在の作曲法でも中心となっています。

また、カデンツやインキピットなどのメロディメイクの手法もこの頃から使われています。

多声音楽の誕生(飛躍的な教会音楽の発展)

ハモりの概念の誕生

単旋律であったグレゴリオ聖歌は、9世紀前後に大きな発展を遂げます。

ハモり(和声)の誕生ですね。

この和声は、教会ではなく世俗の音楽から発展したといわれる事も多く、スイスで誕生したとの見方が強いです。

ヒモ(弦)をピーンと張って指ではじくともちろん音が鳴るのですが、そのヒモ(弦)の長さを3分の2の長さにしてはじくと、、、美しく混ざり合うことがわかりました。

つまり、ヒモの長さが3分の2になると5度上の音、つまり「ド」と「ソ」の関係になります。

これがヒントとなったようで、和音という概念が生まれました。

この進化は、最初は4度や5度の完全音程を中心としたシンプルなものになります(現代のような3度や6度中心のハモりはもう少し後で生まれます)。

音楽の歴史的に見れば、”和声”の概念が0が1になる極めて重要な意味を持つイベントとなります。

オルガヌムの誕生

スイスで発展した4度や5度の和声は、聖歌にも取り入れられていきます。

そして、2声としての音楽としてのグレゴリオ聖歌が成立することとなりました。

当時、「作曲するということ」は、聖歌を1から作るのではなく、グレゴリオ聖歌に新しくハモりや対旋律(メロディ)を加えるということでした。現代で言うと、半分パクリ的な手法ですね笑

この聖歌に新しくメロディを加えて、複数のパートで歌うジャンルのことを、「オルガヌム」と呼びます。

(※下記の図では、赤線が元のグレゴリオ聖歌で、黒線が追加された旋律です)

初期オルガヌム

聖歌の下に4度や5度のハモりのメロディがつけられて歌われるようになります。聖歌の下に4度や5度合わせて歌うといったアレンジで、ちょっとした聖歌の装飾といった程度です。

中期オルガヌム

聖歌の下部ではなく、上部に新たにメロディが加えられます。対旋律のように、しばしば聖歌とは逆の動きをします。聖歌よりオルガヌム声部の方が主役になりつつある時代です。作曲家が主張を始めるんですね。

後期オルガヌム

まず、元の聖歌のテンポを遅くします。そしてその上に、新しい装飾的な節回しを施したメロディが加えられ、元の聖歌とは完全に独立した動きをします(メリスマ・オルガヌム)。ここで完全に主役が入れ替わりましたね。

補足1 ※定旋律について

この時代、「定旋律」という言葉がよく聞かれます。定旋律とは、引用される元になったフレーズの事で、上の図では赤い線が定旋律にあたります。

補足2 ※3度の和声について

一つ注意点として、当時は3度のハモりが全く無かったわけではなく、経過音としては3度のハモりが見られることもあります。楽曲の最初や最後等の重要な箇所については、4度と5度の完全音程しか認められないというのが、この頃の和声です。

3度の入らない、空虚5度と呼ばれるものですね。音楽が発展し、甘美な3度の響きが定着していくにつれ、この空虚5度は、響きの尖り具合から禁止事項となります。音楽は、同じ音でも時代によってその捕らえ方が変わる生き物のようなものですね。

ノートルダム楽派の活躍

こうしたオルガヌムの発展は、12世紀末ごろに頂点に達します(後期オルガヌム)。その絶頂期を支えたのが、ノートルダム楽派と言われる団体の活躍です。

ノートルダム楽派は、主に下記の2名によって発展し、支えられてきました。

上記で説明した、後期オルガヌムは、レオニヌスによって発展しました。長く伸ばされた聖歌に、装飾的な独立した旋律を加え、全く違う作品を作りました。

そしてペロティヌスは、主にレオニヌスが作った作品を、さらに発展させます。2声だったオルガヌムは、最大4声という飛躍的な発展をと遂げます。このペロティヌスの作品は、とても800年前とは思えない程の壮大さを誇り、また舞い踊るようなリズムは、音楽の爆発的な発展を感じさせます。

ペロティヌスが声部を大きく広げたのと同時に、リズムと言う概念も明確化するきっかけを与えました。音の高さはネウマ譜でざっくりと記載されていましたが、音の長さ「音価」も記載できる譜面の考案されたことにより、「リズム」への意識が少しづつ高まってきます。

この頃から、聖歌がより正確に音楽として認識され、「言葉」から「メロディ」へと急激な進化を遂げたと言っても過言ではありません。

この頃の飛躍的に発展した音楽は、人々の心にどれだけの影響を与えたか図り知ることができません。教会支配の絶頂期である12世紀を支えたのは、このノートルダム楽派の貢献があったからこそですね。

芸術音楽の幕開け

アルス・ノヴァ

この時代、「新しい時代」を意味する「アルス・ノヴァ」という言葉をよく聴きます。

しかし、この1300年代を新たな音楽の時代の幕開けというのは間違いです。すでに新しい音楽の時代は幕を開け、大きく発展しています。

この言葉は、フィリップ・ド・ヴィトリ著の「アルス・ノヴァ」という書物によるものですが、実際のところこの書物に記載されていたのは、「新しい音楽」ではなく「新しい記譜法、記譜理論」の提示でした。

これにより、シンコペーションやイソリズムなども記譜できるようになりました。3拍子だけでなく、2拍子も正確に記譜できるようになったんですね。

この頃の音楽を「アルス・ノヴァ」、それ以前の時代を「アルス・アンティクア」と呼ぶだけなので、ここはしっかりと覚えておいてくださいね。

新しいスタイルの確立

アルス・ノヴァの時代、モテットと呼ばれるスタイルが主体となります。

モテットとは、13世紀以降発展したスタイルで、後期オルガヌムのように低音のもう聖歌とはわからないような音階の上に、2声の自由な旋律をのせるという、3声のスタイルの事を言います。

(※下記の図では、赤線が元のグレゴリオ聖歌で、黒線が追加された旋律です)

オルガヌムとモテットの違い

オルガヌムとの最大の違いは、歌詞がラテン語ではなく、「フランス語」で書かれた点です。当時のフランスではラテン語がわからない人が大半だったんですね。

これにより、これまでミサ曲など宗教色100%の音楽が、世俗的で民衆的な色合いを帯びるようになります。テーマがラテン語の「神」ではなく、フランス語の「日常、恋愛」となってくるわけです。

もう、神などはお構いなしといった音楽となり、作曲家が芸術として音楽を捉えはじめたため、より複雑化し、芸術音楽として進化させる要素を強めます。

そして、キリスト教の三位一体を意味する3拍子中心のこれまで宗教音楽から、2拍子の世俗音楽が誕生し、その独特で個性的なリズムはあまりにも斬新で人々に衝撃を与えました。

教会から、従来の宗教音楽からすると不自然すぎるとの大論争が起き、教皇庁が禁止令を出すほどの大論争となりました。

このように、アルス・ノヴァの時代に、従来の100%「宗教音楽」から「芸術音楽」という新しい分岐が生まれ、それぞれ別々の道を歩んでいく道筋が生まれました。

その後、十字軍の度重なる失敗や教皇庁の分裂など、この頃から教会の権威は急激に失墜し始めることとなり、ルネサンスの時代へとつながっていきます。

現代では当たり前である芸術音楽が生まれる、一番最初の源流といっても良いでしょう。

アルスノヴァ時代の作曲家

ヨーロッパ各地で音楽が発展する

このようにフランスを中心に発展した中世音楽は、アルスノヴァの時代にヨーロッパ各地でも独特の発展を遂げます。

フランス

前述のように、当時世界最高峰といわれた作曲家、マショーが音楽にリズムに大きな進化を与えました。同じフレーズでも、尺を変えリズムを作っていったり、8分の9拍子や、旋律を反復する一定の繰り返されるリズムに埋め込んで、それを楽曲の基礎とする手法など、当時の音楽の進化のスピードは想像を絶するものがありました。

そのリズムを記録できるように、譜面が進化したこともリズムの複雑化を支えました。

イギリス

14世紀のイギリスで、世界で始めて3度6度のハーモニーが使われるようになりました。4度5度の完全音程に比べ、甘い温かみのある響きが特徴で、フランスをはじめとする大陸の音楽とは全く違った趣向でした。

イタリア

イタリアでは、フランスのように多声音楽やポリフォニーは栄えませんでした。でもその分、メロディは他の地域より進化しており、フランチェスコランディーニの作る旋律の甘さはイタリア市民の心を捉えました。

イタリアは、市民と音楽が密接に結びつきが強く、愛や生活(狩り)等世俗的な音楽がより進化した地域でした。

  • フランチェスコ・ランディーニ

各地域で発展した音楽は、それぞれが融合し合う

このように、世界各地で進化した音楽は、すべてが融合しさらに進化します。イギリスで進化した3度のハーモニーは、すぐにヨーロッパ大陸に渡り、大陸で育った音楽をさらに前進させました。イタリアの音楽もフランスへと伝わり、さらに音楽が進化します。

そしてデュファイは、各地域すべての音楽の良さをとりまとめ、1つの音楽として進化させることに成功しました。中世西洋音楽の完成と言ってもよいでしょう。

デュファイは、あまり名前を耳にすることはありませんが、音楽史的にはバッハと同じくらいの音楽発展をもたらせたと評価されている作曲家です。

音楽は芸術的要素を持って進化し、ルネサンス音楽を生み出す

「宗教」的な要素から脱却し「芸術」が前面にやってきました音楽は、アルス・ノヴァの時代の音楽は目覚しい進化を遂げました。そして、デュファイによって中世音楽は集大成されることとなりました。

この時期、どのくらい進化したかというと、バロック~ロマン派へと発展したのと同じくらいの音楽的発展があったとっても過言ではないでしょう。

そしてこの進化の流れが、悠遠なる「美」をもつルネサンスの音楽を生み出すきっかけとなります。

この時代が、音楽の歴史の中で最も面白い時代かもしれませんね。でも、学校などでは授業として教えないのが本当に残念です。

中世音楽時代に使われた楽器

弦楽器

  • リュート
  • 中世フィドル
  • ダルシマー(ハンマードダルシマー)

管楽器

  • リコーダー
  • クルムホルン
  • パイプオルガン

中世音楽の世俗音楽

中世音楽の世界以前にも、たくさんの聖歌がありました。でもその記載がほとんどありません。

キリスト教が国教になった4世紀後半あたりから、修道院は当時の最高の教育機関であり莫大な書物をもつようになっていて、こうした史料や当時の楽譜など、ほとんどが修道院で保存されていました。

つまり、世俗の音楽としてどういうものが奏でられていたか等は、史料がないゆえにわからないというのが現実です。

当時は紙が高級品であったし、文字や楽譜が書ける人なんてほんの一握りの人だけだったという時代背景も合わせて知っておきたいところです。西洋音楽は、知的なエリート層によって発展してきた歴史と言ってよいでしょう。

また、世俗音楽として確認されているのは、フランスのトルバドゥール(11世紀頃のオック語抒情詩詩人)やトルヴェール(12世紀後半の北フランスの吟遊詩人)、ドイツのミンネゼング’(12~14世紀のドイツ語圏の叙事詩)と呼ばれる、音楽を奏でながら詩を吟じてゆく世俗音楽があります。また、イタリアではリュート伴奏の世俗曲が流行しました。

これらの世俗音楽は、騎士道や宮廷愛をテーマにしたものがとても多く作られました。この世俗音楽の中で才能がある人は、吟遊詩人や作曲家として人気を得るようになっていきます。

世俗曲が流行したといっても、これはほんの騎士階級であったり、全市民の中ではごくほんの一部の人の音楽です。本当の意味で音楽が世俗化するのは、まだまだ何百年も先の話であることは覚えておいてくださいね。

中世音楽時代の名曲を聴こう

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その他の主な、クラシックの時代を知ろう!

クラシック全体を見ることができるようになると、クラシック音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。もし良かったら、合わせて他の時代も知ってみてくださいね!