ギョーム・ド・マショー
Guillaume de Machaut 1300年頃~1377年 フランス
アルス・ノーヴァ時代の作曲家、詩人。
マショーの音楽
この時代、音楽といえば教会主導の宗教曲、ミサ曲という神の音楽でしたが、その中で「恋愛」や「世相」をテーマにしたたくさんの世俗曲を残しました。マショーが聖職者であったにも関わらず、そういった作風であったことはとてもユニークなところですね。
しかし、生涯で残した140曲以上もの楽曲の内、世俗曲の比重がかなり高かったマショーですが、最も有名な楽曲は「ノートルダム・ミサ曲」とミサ曲であるところは皮肉なところです。また、このミサ曲は、6章からなるミサを、1人ですべて作曲した世界で最初の楽曲だったことは特筆すべきところです。
また、マショーの音楽には、イソリズムやシンコペーションなど複雑化したリズムも数多く見られ、臨時導音を使用したり、大変技巧的で構成的な凝ったつくりが大きな特徴でした。現代においても、とても当時にできた音楽とは思えません。
このような技巧的な作曲技術「音楽を設計し、構築する」という概念は、完全に宗教音楽で培われてきたのですが、「貴婦人の切ない恋心」や「滅び行く騎士の世界」などをテーマにした世俗曲にも転用した事がマショーの大きな功績です。
なぜなら、これが後の芸術音楽へとつながる大きなきっかけとなったからです。音楽が芸術へと進化させる起爆剤となった、一番最初の作曲家と言ってよいでしょう。そしてネサンス音楽へとつながってゆくのですね。
またマショーは、自作品を数冊の「マショー写本」として残しており、これは現在にも残っています。
マショーの名曲
- 「ノートルダム・ミサ曲」
- 「ダヴィデのホケトゥス」
- 「ああ、この苦しみ!どうして忘れられよう 」(モテット)
- 「婦人よあなたです、私に喜びの苦痛を与えているのは」(モテット)
- 「運命女神の約束に」(モテット)
- 「恋が私を焦がれさせ」(バラード)
- 「私は幸福な人生を送れるはずだ」(ヴィルレー)
- 「甘き淑女よ」(ヴィルレー)
- 「わが終わりはわが始めなり」(ロンドー)
- 「ばらよ、ゆりよ、春よ、緑よ」(ロンドー)
- 「真実の物語」(詩篇)
マショーの生涯
1300年頃、フランス、シャンパーニュ地方(ランス)の貴族の家に生誕します。
壮年期に、ルクセンブルクのジョン公爵(後のボヘミア王ヨハネス)の秘書に就任し、公爵の軍に連れ添い、イタリアやポーランドなどヨーロッパ各地を遠征しました。またその間に就任した(1334年)、ランスのノートルダム大聖堂の参事会員をつとめます。
1346年から1364年まで、フランス国王ジャン2世の妃であるヨハンの娘ボンヌに仕えたのをはじめ、1364年以降も多くのパトロンに仕えることとなりました。
ボンヌ仕えた1346年頃、ランス自宅を構えて以降、生涯この地から出ることはありませんでした。
1377年、フランスのランスで死去。たくさんの思い入れがあるノートルダム大聖堂に葬られました。
マショーの人物
マショーの人物像をあらわすものとして、自分の作品に対する愛着や自意識があげられます。
中世音楽時代、作曲家はたくさんいたのですが、自分の作品に署名をして「これは私の作品です」と後世に残そうとした人はほとんどいませんでした。この時代に名前が残っている作曲家は何人かはいますが、誰かが「あの人の作品はすごかった」「ノートルダム大聖堂で活躍した作曲家がいた」と言われたり、記録されたりして受け継がれて残っただけです。
しかし、マショーは自分の作品に署名し、作品と作曲家個人を結び付けようとしました。自分の作品はこれです!としっかり区別しようとしたのですね。そのマショーの集大成が「マショー写本」です。
中世音楽時代では珍しかった自作品への署名は、ルネサンス時代から一般的になってきます。