
913年3月31日、ウィーンの楽友協会で開かれた演奏会は、最後の曲までたどり着けませんでした。
客席で口笛とやじが止まらなくなり、ついには主催者が客を平手打ちするほどの騒ぎになったからです。
指揮台に立っていたのは、のちに音楽のルールそのものを作りかえることになるシェーンベルクでした。
近代音楽というと「難しくてよくわからない音楽」と片づけられがちですが、その裏側には、聴き手と作曲家が本気でぶつかり合った、こんな生々しい事件がいくつも転がっています。
この記事では、まず近代音楽の特徴を4つの方向に分けて整理し、そのうえで戦争や政治、そして客席で起きたことまで含めて、この時代の音楽を追いかけていきます。
目次
近代音楽はいつの時代?
当サイトでの区切り方
西洋音楽史の「近代音楽」は、本によって指す範囲がかなり違います。
当サイトでは、印象主義音楽の時代が終わる20世紀初頭から、第二次世界大戦のころ(20世紀半ば)までを近代音楽として扱っています。
こう区切っておくと、「ロマン派→印象主義→近代」という流れが一本の線として見えやすくなるんです。
なお、ドビュッシーやラヴェルまでまとめて近代音楽と呼ぶ本も多いので、ほかの資料と読み比べるときは、この違いを頭に置いておいてください。
時代背景:戦争が「聴き手」ごと壊してしまった

初期の西洋音楽を支えた教会や王侯貴族は、このころにはもう音楽界の主役ではなくなっていました。
かわりに音楽を支えていたのが、ブルジョワ階級(商売や工業で豊かになった市民層)で、彼らが演奏会の切符を買い、作曲家を援助することで、ロマン派から印象主義までの音楽は大きく花開きました。
ところが19世紀の終わりから、列強が領土と利益を奪い合う帝国主義が強まり、国家の利益が何より優先され、個人の気持ちは後回しにされる空気が広がっていきます。
そして1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者が暗殺された事件をきっかけに、第一次世界大戦が始まってしまいました。
4年以上つづいたこの戦争はヨーロッパを荒廃させ、音楽を支えてきた市民層の暮らしと財産まで壊していきます。
戦後のウィーンでは物の値段が際限なく上がるインフレが起き、あとで紹介するシェーンベルクの演奏会シリーズも、このインフレで続けられなくなりました。
支えてくれる聴き手を失ったことが、近代音楽の行き先を大きく変えていくことになります。
戦場へ行った作曲家たち
戦争は、作曲家本人たちも巻きこみました。フランスのラヴェルは輸送トラックの運転手として従軍し、1916年には激戦地ヴェルダンの前線で燃料や弾薬を運んでいます。
そのラヴェルが戦争のさなかに書き進めたピアノ曲集が『クープランの墓』で、6曲すべてが、戦死した友人たちにささげられています。
オーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインは、開戦直後の1914年に負傷して右腕を失いました。
それでも演奏をあきらめなかった彼の頼みで、ラヴェルが1929年から30年にかけて書いたのが『左手のためのピアノ協奏曲』です。
左手一本で弾くための協奏曲という変わった名曲は、戦争がなければ生まれなかった音楽なんです。
巨匠たちの退場
戦争をはさんで、音楽界の顔ぶれもがらりと入れ替わりました。
マーラーは開戦前の1911年に、ドビュッシーは終戦の年の1918年に世を去りました。
フィンランドのシベリウスも、1926年の交響詩『タピオラ』を最後に、亡くなるまでの約30年間、大きな作品を発表しなくなります。
リヒャルト・シュトラウスやラヴェルは書きつづけましたが、時代の中心はすでに次の世代へ移っていました。
かわって表舞台に出てきたのが、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、プロコフィエフ、プーランク、少し遅れてショスタコーヴィチといった作曲家たちです。
近代音楽の特徴は「4つの脱出」
新しい世代の作曲家たちに共通していたのは、ロマン派の音楽から抜け出したいという気持ちでした。
ロマン派の時代に、それまでのルールで書ける音楽はほぼ出つくしたという行きづまりの空気があり、それを受け入れる人と、なんとか抜け出そうとする人に分かれていったのです。
ただ、抜け出す方向は人によってまるで違いました。大きく分けると、次の4つになります。
- ①調から抜け出す(無調・十二音技法):シェーンベルクたち
- ②リズムで揺さぶる:ストラヴィンスキー『春の祭典』
- ③昔の形に戻る(新古典主義):ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、プーランク
- ④足もとの音楽を掘る(民族音楽・ジャズ):バルトーク、ガーシュウィン、ラヴェル
ひとりの作曲家がいくつもの方向を行き来することも多いので、4つのグループというより、4本の道しるべくらいに考えてください。

①調から抜け出す:無調から十二音技法へ
そもそも「調」とは何か
ロマン派までの音楽は、「機能和声」というルールの上に立っていました。
機能和声とは、ドミソの和音に落ち着きたくなるような、和音どうしの引っぱり合いで曲を進めるルールのことです。
この「落ち着く先」がはっきりしているから、曲には「ハ長調」「イ短調」といった調が生まれます。
逆に言えば、落ち着く先をなくしてしまえば、音楽は何調とも言えないものになるわけで、それを本気でやろうとしたのがシェーンベルクでした。
「別の惑星の空気」から始まった無調
シェーンベルクが調から離れはじめたのは、1907年から08年にかけて書いた『弦楽四重奏曲第2番』でした。
最後の楽章ではソプラノ歌手が加わり、詩人シュテファン・ゲオルゲの「私は、別の惑星の空気を感じる」という一行で始まる詩を歌います。
この楽章で、音楽は落ち着く先の調をほとんど手放してしまいます。
こうした、どの調にも属さない音楽を「無調」と呼び、ここからシェーンベルクと弟子のヴェーベルン、ベルクたちは、無調の作品を次々に書いていきました。
平手打ちで終わったウィーンの演奏会
その無調の音楽が、聴き手とまともにぶつかったのが、冒頭で紹介した1913年3月31日の演奏会です。
のちに「スキャンダル・コンサート」と呼ばれるようになりました。
この日は弟子のヴェーベルンやベルク、シェーンベルク自身の曲が並び、最後にマーラーの歌曲が置かれていました。
ところが1曲目から抗議の声があがり、4曲目のベルクの歌曲で客席は手がつけられない状態になります。

主催者のエアハルト・ブッシュベックが客の一人を平手打ちしたのはこのときで、マーラーは演奏されないまま演奏会は打ち切られました。
騒ぎはのちに裁判にまでなりました。
証人として呼ばれたオペレッタ作曲家のオスカー・シュトラウスは、「あの平手打ちの音が、その晩でいちばん調和のとれた響きだった」と述べたと伝えられています。
皮肉としては出来すぎているほどですが、当時の人が無調の響きをどう受けとめたのかが、この一言にそのまま表れているようで、私は何度読んでも笑ってしまいます。
拍手もブーイングも禁止の演奏会
平手打ちの夜から5年後の1918年、シェーンベルクは思いきった手に出ます。
ウィーンで「私的演奏協会」という会員制の演奏会シリーズを立ち上げたのです。
入れるのは会員だけで、批評家は入場お断り。
拍手も、不満を表すことも禁じられ、曲目は当日まで知らされず、同じ曲が何度もくり返しプログラムにのりました。
新しい音楽は一度聴いただけではわからないし、好き嫌いの騒ぎの中ではまともに聴いてもらえない、とシェーンベルクは考えたわけです。
協会は約3年のあいだに110回を超える演奏会を開いたとされますが、戦後のインフレで資金が続かなくなり、1921年に活動を終えました。
聴き手とぶつかった作曲家が、聴き手を選んで扉を閉めたというこの出来事は、その後の「現代音楽は一部の人のもの」というイメージの出発点のようにも見えます。
十二音技法のしくみ
ただ、無調には大きな弱点がありました。
調という「地図」を捨ててしまったので、長い曲をどう組み立てればいいのか、手がかりがなくなってしまったのです。
そこでシェーンベルクが、調のかわりの新しい地図として考え出したのが「十二音技法」(ドデカフォニー)でした。
1オクターブの中には、ピアノの白い鍵盤と黒い鍵盤を合わせて12の音があります。
十二音技法では、この12の音を1回ずつ使って「音列」と呼ばれる順番を決め、その並びを逆からたどったり上下をひっくり返したりしながら曲を組み立てます。
どの音も平等にあつかうので、「ド」のような主役の音が生まれないまま、曲全体に筋を通すことができるわけです。
シェーンベルクがこの方法の最初のスケッチを書いたのは1921年の夏でした。
『5つのピアノ曲』(作品23)では最後の「ワルツ」だけがこの技法で書かれ、全部の楽章を十二音技法で通した最初の作品は、1923年に完成した『ピアノ組曲』(作品25)です。
耳で確かめるなら、この『ピアノ組曲』がいちばんわかりやすいと思います。
ガヴォットやメヌエットといった、バッハの時代の舞曲の形をそのまま借りているので、リズムだけ聴けば古風な踊りの音楽なのに、音はいつまでたっても「ド」に帰ってきません。
しかも土台になった12音の並びの最後の4つは、ドイツ語の音名で読むとB・A・C・H(バッハ)を逆さにした形です。
古い音楽を壊すのではなく受けつぐつもりだった、という作曲者の気持ちがのぞいています。
実際に聴いてみると、ロマン派のような甘いメロディは、もうかけらも残っていないことがわかります。
個人的には、「単音から和音へ」「和音から機能和声へ」「機能和声から大規模な音楽へ」と発展してきた西洋音楽の歴史の、ここが終着駅だったように感じています。
作曲家として自分で試してみたら
私自身も作曲をする中で、調性(何調かという感じ)をぼかす手段として、十二音技法に取り組んだことがあります。
ところが、これがうまくいきませんでした。12の音をすべて使おうとすると、調性がぼけるどころか、細かな転調(曲の途中で調が移り変わること)を何度もくり返す曲になってしまったんです。
シェーンベルクは調から離れるためにこの方法を作ったのに、私の手の中では、短い調が次から次へと顔を出す音楽になったわけです。
ただ、この失敗は無駄になりませんでした。
その細かな転調は、同じ形の和音をそのまま上や下へずらしていく「平行和音」のような使い方へと育ち、いまの私の音楽の礎になっています。
西洋音楽の終着駅だと感じた技法が、自分にとっては出発点のひとつになったのですから、音楽というのは面白いものです。

②リズムで揺さぶる:ストラヴィンスキー『春の祭典』
小節ごとに拍子が変わる音楽
シェーンベルクが「音の高さ」のルールを壊したとすれば、ロシア出身のストラヴィンスキーが壊したのは「リズム」のルールでした。
その代表が、平手打ち事件のわずか2か月後、1913年5月29日にパリで初演されたバレエ音楽『春の祭典』です。
古代ロシアの村で、春の神にいけにえの少女をささげるという筋のこのバレエでは、最後の「いけにえの踊り」になると、拍子(1小節に何拍あるか)がほとんど1小節ごとに変わっていきます。
ふつうの音楽なら「1・2・3・4」と数えていれば足りるのに、この曲では数え方そのものが次々に入れかわるので、聴き手は足場をはずされたような感覚になるわけです。
しかもストラヴィンスキーは、弦楽器も管楽器もまとめて、オーケストラ全体を一つの巨大な打楽器のように鳴らしました。
美しいメロディで心を動かすのではなく、体に直接ぶつかってくるリズムで聴き手を揺さぶる、という発想そのものが、ロマン派とはまったく別の場所から来ていたのです。
騒ぎは、どこまで本当だったのか
初演の夜の劇場が、やじと口笛と観客どうしの言い争いで、音楽が聞き取りにくいほどの騒ぎになったことは、当時の批評に書き残されています。
ただ、よく言われる「暴動が起きた」という話は、後からふくらんだ部分があるようです。
上演は最後まで続けられ、警察が出動したという確かな証拠も見つかっていないので、大騒ぎは本当、「暴動」は尾ひれ込み、と受けとめておくのがよさそうです。
③昔の形に戻る:新古典主義
『春の祭典』で世界をおどろかせたストラヴィンスキーは、第一次世界大戦のあと、今度は正反対に見える方向へかじを切ります。
1920年にパリ・オペラ座で初演されたバレエ『プルチネルラ』では、18世紀イタリアの作曲家ペルゴレージの作と考えられていた楽譜をもとに、古い音楽を自分の響きで仕立て直しました。
(のちの研究で、その楽譜の多くはペルゴレージ以外の作曲家のものだったとわかっています。)
このように、バッハやモーツァルトの時代のすっきりした形式に立ち返り、そこに現代の響きを流しこむやり方を「新古典主義」と呼びます。
ロシアのプロコフィエフが1917年に書いた『古典交響曲』は、ハイドンが今の時代に生きていたら、という発想から生まれたと伝えられています。
フランスのプーランクも、軽やかでしゃれた新古典の作品を数多く残しました。
先ほどのラヴェルの『クープランの墓』も、題名の「クープラン」が18世紀フランスの作曲家の名前であるとおり、古い舞曲の形を借りた一作です。
この流れの考え方をいちばんはっきり言葉にしたのがストラヴィンスキーで、1935年の自伝に「音楽はその本質からして、感情であれ心の状態であれ、何かを表現する力をもたない」と書いています。
音楽とは心の叫びだと信じていたロマン派の人たちが読んだら、椅子から転げ落ちそうな一文ですよね。
感情を歌いあげるのではなく、形の美しさで勝負するという点で、新古典主義もまたロマン派からの脱出だったわけです。
④足もとの音楽を掘る:民族音楽とジャズ
蓄音機をかついだバルトーク
4つめの道は、教会や宮廷とは別の場所、つまり人々の暮らしの中で歌われてきた音楽に向かう道でした。
ハンガリーのバルトークは、1906年ごろから友人のコダーイとともに、エジソン式の蓄音機(ろう管という円筒に音を刻んで録音する機械)をかついで農村をまわり、村人たちが歌う民謡を録音していきました。

その数は、ハンガリーだけでなくスロヴァキアやルーマニアなどの民謡も合わせて、生涯でおよそ1万旋律にのぼるとされています。
都会の作曲家が「民謡風」に仕立てた歌ではなく、本物の民謡には、ドレミの長調・短調にはおさまらない音の並びや、つっかえるような不思議なリズムがたくさん眠っていました。
バルトークはそれを自分の作品に取りこむことで、ロマン派とも無調とも違う、第三の響きを作り出したのです。
海の向こうから来たジャズ
同じころ、アメリカでは黒人の音楽から生まれたジャズが広がっていました。
1924年2月12日、ニューヨークのエオリアン・ホールで、ポール・ホワイトマン楽団が「現代音楽の実験」と題した演奏会を開き、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を初演します。
ジャズとクラシックの境目をまたいだこの曲は、大きな評判を呼びました。
ジャズの響きは、ヨーロッパの作曲家たちの耳もとらえます。
ラヴェルが1931年に完成させた『ピアノ協奏曲ト長調』には、ジャズを思わせるリズムや和音がはっきり聞こえてきます。
民謡もジャズも、それまでのクラシックが「よそもの」として相手にしてこなかった音楽で、それを正面から取りこんだことが、近代音楽の幅をぐっと広げることになりました。
国家が音楽に口を出した時代
ここまでの4つの道は、作曲家が自分で選んだ道でした。ところが1920年代から30年代にかけて、時代背景のところで書いた「国家の利益が何より優先される」力が、とうとう音楽そのものに向けられ、国家が「良い音楽」と「悪い音楽」を決めはじめます。
「百年の優位」という言葉と、その12年後
十二音技法が生まれた1921年の夏には、忘れられない話があります。
弟子のヨーゼフ・ルーファーの回想によると、シェーンベルクは「私は、今後百年のドイツ音楽の優位を保証する発見をした」と語ったそうです。
ところが同じ夏、シェーンベルクは休暇先の保養地マットゼーで、ユダヤ人は出ていくようにと迫られ、町を去っていました。
そして12年後の1933年、ナチスが政権をとるとドイツにいられなくなり、その年の10月末にはニューヨークへ渡っています。
ドイツ音楽の未来を誰よりも信じていた人が、そのドイツから追い出されたことになります。
新聞の記事一本で、作曲家の運命が変わったソ連
ソ連では、もっと直接的なことが起きました。1936年1月26日、最高指導者スターリンが、当時29歳だったショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を劇場で観ます。
その2日後、共産党の新聞『プラウダ』に「音楽のかわりに荒唐無稽」という題の記事がのりました。
書いた人の名前がない記事でしたが、このオペラを名指しで批判するもので、国のいちばん上からの警告であることは誰の目にも明らかでした。
ショスタコーヴィチは、初演の準備を進めていた交響曲第4番を取り下げています。
客席のやじなら演奏会が1回つぶれるだけですむのに、国家ににらまれると作曲家の人生そのものが危うくなる、という時代に入ったわけです。
「退廃音楽」の札と、海を渡った作曲家たち
ドイツでも同じことが起きていました。
1938年5月、ナチスはデュッセルドルフで「退廃音楽」展という展覧会を開き、自分たちの気に入らない音楽を、見せしめのように並べて笑いものにしています。
客席のやじに悩まされた新しい音楽は、今度は国の名前で「退廃」の札を貼られたのです。
こうした圧力や戦争から逃れて、作曲家たちは次々にアメリカへ渡りました。
1933年のシェーンベルクにつづいて、ストラヴィンスキーが1939年に、バルトークとヒンデミットが1940年に海を越えています。
ウィーン出身のコルンゴルトはハリウッドで映画音楽を書くようになり、1938年の『ロビン・フッドの冒険』でアカデミー賞を受けました。
ヨーロッパのオーケストラ音楽がアメリカの映画館へ流れこんでいく道が、このとき開かれたんです。
収容所で初演された四重奏曲
逃げられなかった人の中にも、音楽を手放さなかった作曲家がいました。
フランスのメシアンはドイツ軍の捕虜になり、1941年1月15日、収容所の中で『世の終わりのための四重奏曲』を初演しています。
聴いていたのは捕虜と看守あわせて400人ほどとされ、メシアンは後に、あれほど集中して聴いてもらえたことはなかったと語りました。
国家が個人を押しつぶそうとした時代のいちばん底で、音楽がいちばん真剣に聴かれていたというのは、なんとも皮肉で、同時に救いのある話だと思います。
西洋音楽史の終焉
第二次世界大戦が終わったあと、西洋音楽は元の姿には戻りませんでした。
「西洋音楽史の終焉」と言われてもピンと来ないかもしれませんが、グレゴリオ聖歌から始まった壮大な発展の歴史が、同じ勢いで今も続いているかというと、そうは言えませんよね。
あちこちで開かれているクラシックコンサートのプログラムを見てみてください。
定番として何度も演奏されている曲は、どんなに新しくても1950年前後の作品までで、もう70年以上も前の音楽なんです。
これは私の印象だけの話ではありません。
世界中の演奏会情報を集めているサイト「Bachtrack」の2025年の統計でも、よく演奏された作曲家の上位はベートーヴェン、モーツァルト、バッハで、上位10作品はすべて1931年までの曲でした。
いま生きている作曲家の曲も演奏されてはいますが、全体の1〜2割ほどで、定番の顔ぶれを入れかえるところまでは来ていません。
つまり、新しい曲が次々に生まれて主役が入れかわっていく、という意味での西洋音楽史(クラシックの歴史)は、1950年ごろに終わっているのだと私は考えています。
世間のコンサートのプログラムそのものが、その証拠になっているわけです。
西洋音楽のその後
いったん終わりを迎えた西洋音楽ですが、消えてしまったわけではなく、形を変えて今の音楽に大きな影響を与えつづけています。
その姿は、大きく3つに分けられます。
①現代音楽
シェーンベルクの十二音技法は、数は多くないものの後の作曲家たちに強い影響を与え、より複雑で、より耳なじみのない響きへと進んでいきました。
いまも「現代音楽」というと、すぐには理解しにくい音楽というイメージがありますが、それはこの流れを受けついでいるからです。
その先には、1952年に初演されたケージの『4分33秒』のように、演奏者が音をひとつも出さない作品まで現れました。
ロマン派からどんどん遠ざかりつづけるこの流れこそ、西洋音楽史の本流が形を変えて生きている姿だと言えるかもしれません。
②ポピュラー音楽
いま最も身近なポピュラー音楽も、じつはクラシックを源流にもつものがたくさんあります。
ポップスの多くは、歌詞や題名で伝えたい内容がはっきりしていて、それを機能和声でわかりやすく盛りあげるように作られているからです。
シェーンベルクたちが抜け出そうとした機能和声は、クラシックの外側で、いまも主役を張りつづけているわけです。
映画音楽は、物語や情景を音で描くロマン派の「標題音楽」の延長にあると言えますし、先ほどのコルンゴルトのように、ヨーロッパの作曲家が直接ハリウッドに持ちこんだ面もあります。
こうして受けつがれた機能和声が、ジャズやラテンアメリカをはじめ世界各地の音楽と結びついて、いまの多彩なポピュラー音楽になっていきました。
ビートルズが1965年の『イエスタデイ』で弦楽四重奏を使い、1967年の『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』で40人のオーケストラを録音したことも、当時はとても画期的でした。
クラシックとポピュラー音楽は正反対のものと思われがちですが、根っこでは深くつながっているんです。
③再現される音楽
西洋音楽の歴史の中で作られた曲は、演奏会で弾かれ、録音で聴かれ、授業やレッスンの教材になって、何度も何度も「再現」されつづけています。
クラシックの演奏会で取りあげられるのは、ほとんどがバロックから近代までの音楽で、指揮者やオーケストラは、過去の名曲をいまによみがえらせる「再現」の担い手だと言えます。

12月になればベートーヴェンの「第九」が毎年のように街に流れますが、何百年も前に作られた音楽なのに、とても不思議な感覚です。
ポピュラー音楽の多くは時代が変わると聴かれなくなっていくことを考えると、西洋音楽が残したものの大きさがよくわかります。
録音とラジオが変えた「聴く」という体験
この「再現」を一気に広げたのが、近代音楽の時代に広まった録音とラジオでした。
1920年代半ばにはマイクを使った電気録音が始まり、日本でも1925年3月22日に社団法人東京放送局(いまのNHKの前身)がラジオ放送を始めています。
演奏会場に行った人しか聴けなかった音楽が、家にいながら何度でも聴けるものになったことで、新しい曲より録音された名曲がくり返し聴かれる、いまのクラシックの姿が形づくられていきました。
「昔の曲を演奏する」習慣を広めたメンデルスゾーン
もっとさかのぼると、作曲者が亡くなって何十年もたった曲を演奏会で聴くこと自体、昔は当たり前ではありませんでした。
演奏会では新しい曲を演奏するのがふつうで、この流れを大きく変えた一人がメンデルスゾーンです。
メンデルスゾーンは10代のなかばに、祖母のベラ・ザロモンからバッハの『マタイ受難曲』の筆写譜(手で書き写した楽譜)を贈られました。
その音楽に心を奪われた彼は、演奏会で取りあげようと動きだします。
作曲者のバッハが亡くなってから、すでに79年がたっていました。
師のツェルターははじめこの計画に乗り気ではなかったと伝えられていますが、ふたを開けてみれば結果は大成功でした。
1829年3月11日、20歳のメンデルスゾーンが指揮したベルリンでの演奏会は切符が売り切れ、入れなかった人が大勢出たため、10日後のバッハの誕生日にもう一度演奏されています。
良い音楽は時代をこえて人を動かすのだと、このとき多くの人が知りました。
過去の名曲をくり返し演奏するという、いまのクラシックコンサートの形ができていくうえで、この演奏会は大きな転機のひとつになったと考えられています。
近代音楽の主な作曲家
本文に登場した作曲家を、生まれた順にまとめておきます。
- シェーンベルク(1874〜1951):無調から十二音技法へ。1933年にアメリカへ渡る
- バルトーク(1881〜1945):蓄音機で約1万の民謡旋律を集め、作品に生かした
- ストラヴィンスキー(1882〜1971):『春の祭典』でリズムを革新し、のちに新古典主義へ
- プロコフィエフ(1891〜1953):『古典交響曲』のほか、『ピーターと狼』『ロメオとジュリエット』
- パウル・ヒンデミット(1895〜1963):ナチスの圧力を受け、1940年にアメリカへ渡る
- ガーシュウィン(1898〜1937):『ラプソディ・イン・ブルー』でジャズとクラシックをつないだ
- プーランク(1899〜1963):軽やかでしゃれたフランスの新古典主義
- ハチャトゥリアン(1903〜1978):『剣の舞』で知られる、アルメニアの響きを生かした作曲家
- ショスタコーヴィチ(1906〜1975):国家の批判にさらされながら交響曲を書きつづけた
この記事に出てきた曲を聴いてみよう
近代音楽は、説明を読んだあとに聴くと、驚くほど耳に入ってきやすくなります。
4つの方向ごとに、まず1曲ずつ聴いてみてください。
- ①調から抜け出す:シェーンベルク『ピアノ組曲』作品25
- ②リズムで揺さぶる:ストラヴィンスキー『春の祭典』から「いけにえの踊り」
- ③昔の形に戻る:プロコフィエフ『古典交響曲』、ラヴェル『クープランの墓』
- ④足もとの音楽を掘る:ガーシュウィン『ラプソディ・イン・ブルー』、ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』
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サービスの選び方は、こちらの記事にまとめています。
そのほかのクラシックの時代も知ろう
クラシック全体の流れが見えるようになると、一曲一曲の聴こえ方がぐっと深くなります。
よかったら、ほかの時代もあわせて読んでみてくださいね。
▶中世音楽
▶近代音楽
また、こちらの方ではクラシックに見落としがちな知識もまとめていますので、ぜひチェックしてみてくださいね。
