印象主義音楽

1889年のパリ。

完成したばかりのエッフェル塔が話題をさらっていた万国博覧会の、アンヴァリッド広場の会場に、ジャワ(今のインドネシア)の村を再現した展示があり、青銅の打楽器を中心にした合奏音楽ガムランが、踊りとともに披露されていました。

そこへ何度も足を運び、長い時間聴き入っていたと友人が証言しているのが、まだ代表作を書く前だった20代後半の作曲家、クロード・ドビュッシーです。

彼は6年後、友人にあてた手紙でこう書いています。

「ジャワの音楽を覚えていますか。あらゆるニュアンスを表現できて、私たちの主音と属音が幽霊のように思えてくる、あの音楽を」。

主音と属音とは、ドとソのように曲の柱になる音のことで、ヨーロッパの音楽が何百年もかけて築いてきた土台そのものです。

その土台が幽霊に見えたというのですから、この出会いがどれほどの衝撃だったかが伝わってきますよね。

印象主義音楽とは、このドビュッシーを中心に、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてフランスで生まれた音楽のことです。

激しい感情を物語のように語るかわりに、光や水や空気の気配を、音の色合いで描こうとしました。

ところが「印象主義」という呼び名は、もともとほめ言葉ではなく、若いドビュッシーの作品を審査した芸術アカデミーが「このままでは危ない」と注意するために使った言葉だったんです。

しかも当のドビュッシーは、有名になったあとも、この呼び名を使う人たちを手紙の中で「愚か者」とまで書いています。

呼ばれた本人が嫌がっていた名前が、百年以上たった今も教科書に残っているというのは、考えてみるとずいぶん不思議な話です。

この記事では、印象主義音楽が生まれた時代から、名前のいきさつ、音の特徴とその証拠になるエピソード、そして西洋音楽史の中での意味までを順にたどっていきます。

印象主義音楽が生まれた時代

わずか30年に巨匠がひしめいた

印象主義音楽が大きく花開いたのは、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてです。

この記事では時代の流れをつかみやすくするために、ワーグナーが亡くなった1883年ごろから、第一次世界大戦が始まる1914年ごろまでの約30年間を、ひとつの時代として見ていきます。

バロックが約150年、ロマン派が約100年続いたことを思うと、驚くほど短い期間なんです。

ところがこのわずかな間に、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニ、ドビュッシー、ラヴェル、サティ、ラフマニノフといった巨匠の名前がずらりと顔をそろえます。

全員が印象主義の作曲家というわけではなく、同じ30年を生きた人たちという意味ですが、これだけの顔ぶれを見ると、調性を中心に発展してきた西洋音楽がほぼ完成を迎えた時期だったと筆者には思えます。

石油と電気が世界を変え、帝国主義が始まった

これほどの才能が集まった30年間は、音楽の外の世界も大きく揺れていました。

世紀の変わり目にあたるこの時期には、世界で初めての映画がつくられ、電話が少しずつ広まり、エッフェル塔が建ち、超豪華客船タイタニック号が海に出ています。

動力源が「石炭と蒸気」から「石油と電気」へ変わって飛行機や自動車が生まれ、産業の中心は軽工業から重工業へ移りました。

これが第二次産業革命で、産業革命の生まれたイギリスだけでなく、アメリカやドイツが世界の産業の中枢に進出していきます。

産業が発展すると、資本主義は新しい顔を見せはじめました。

強い企業が弱い企業を吸収してさらに強くなり、19世紀の終わりには、巨大になった企業や銀行が手を組んで市場を牛耳るようになります。

少数の大企業が莫大な利益を得るこのしくみは、独占資本主義と呼ばれています。

巨大になった企業や銀行のお金は、新しい投資先を求めて海外へ向かい、国家による植民地の獲得や勢力争いと結びついていきました。

イギリスとフランスを筆頭に、ロシア・アメリカ・ドイツ・日本といった列強がこぞって植民地を求め、自国の利益のために他国を侵略する帝国主義の時代に入ります。

地球上の半分が数か国に支配されたと言われるほどでした。

芸術の世界でも、19世紀のロマン主義をそのまま引きつぐのではなく、象徴主義や印象主義のように新しい感覚を求める動きが強まっていきました。

国家の利益が何より優先される空気の中で、自分の感情や主観を前面に押し出すロマン主義が古く見えはじめたのではないか、と筆者は考えています。

帝国主義の時代は第一次世界大戦が始まる1914年まで続き、この記事でいう印象主義の時代も、同じくそこで区切りを迎えます。

「ドイツに負けない音楽を」というフランスの巻き返し

こうした時代の変化に加えて、フランスには音楽の面でもうひとつ事情がありました。

古典派の時代以降、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーと続いたドイツ語圏が西洋音楽の中心になり、フランスは交響曲や室内楽といった器楽の分野では、ベルリオーズを例外として大きく遅れをとっていたのです。

そこへ追い打ちをかけたのが、1870年に始まった普仏戦争(フランスとプロイセン=のちのドイツとの戦争)での敗北でした。

翌1871年の2月、サン=サーンスと声楽教師のビュシーヌが中心になって、「ドイツに負けない器楽文化をフランスに」という思いから国民音楽協会を立ち上げ、フランクやフォーレも創立メンバーに加わります。

合言葉はラテン語で「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」。

正会員になれるのはフランス人だけという、かなり思い切った決まりでした。

この動きの中から、サン=サーンスの交響詩『死の舞踏』(1874年)や『動物の謝肉祭』(1886年)といった名曲が生まれていきます。

戦争に負けたくやしさが音楽を育てたというのは皮肉な話ですが、この土台があったからこそ、同じフランス人である次の世代のドビュッシーが思いきり羽を伸ばせたのだと筆者は考えています。

「印象主義」という名前は悪口から始まった

1887年、アカデミーの報告書に書かれた一文

そのドビュッシーは1884年、22歳でローマ大賞という作曲コンクールの最高賞をとり、ローマに留学しました。

留学生は成果となる作品をパリの芸術アカデミーに送って審査を受ける決まりになっていて、ドビュッシーが1887年に提出したのが交響組曲『春』です。

これを受け取ったアカデミーの報告書には、次のような意味のことが書かれました。

「ドビュッシー氏には音楽の色彩に対するはっきりした感覚があるが、それが行きすぎて、輪郭や形式の正確さの大切さを忘れがちである。芸術作品における真実のもっとも危険な敵のひとつである、このあいまいな『印象主義』に用心することが強く望まれる」。

ドビュッシーの音楽に「印象主義」という言葉が結びつけられた、知られているかぎり最初期の例がこれなんです。

つまりこの言葉の出発点は、先生が通知表に書いた「注意」でした。

色づかいばかりで形がない、という評価だったわけですが、筆者はこの一文を読むたびに、審査員はけなすつもりで、彼の音楽のいちばんの魅力を言い当ててしまったのではないかと思ってしまいます。

絵画の「印象派」も、やはり悪口だった

アカデミーが持ち出した「印象主義」は、もちろん絵画から借りてきた言葉です。

そしてその絵画のほうでも、名前の始まりは同じようなものでした。

1874年、モネたちが開いた展覧会に『印象・日の出』という絵が出品されました。

これを見た批評家ルイ・ルロワは、風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に「印象派の展覧会」という題の記事を書き、「壁紙の下絵のほうが、この海の絵よりまだ仕上がっている」とからかいます。

この記事をきっかけに「印象派」という呼び名が広まったので、絵でも音楽でも、新しいものは最初に悪口の形で名前をもらったことになります。

本人たちは最後まで嫌がっていた

ドビュッシーが出版社に書いた手紙

悪口として始まった呼び名は、20世紀に入るころにはほめ言葉へと変わっていきましたが、ドビュッシー本人の気持ちは変わりませんでした。

1908年、管弦楽のための『映像』を書いていた彼は、楽譜出版社のジャック・デュランにあてた手紙で、こう述べています。

「私は何か別のものを、いわば現実をつくろうとしているのです。

愚か者たちが『印象主義』と呼んでいるものを。これほど不適切に使われている言葉もありません。とくに美術批評家たちによって」

ここで大事なのは、彼が自分の音楽を「ぼんやりした雰囲気」ではなく「現実」だと言っている点です。

ドビュッシーが強く影響を受けたのは、マラルメやヴェルレーヌといった象徴派の詩人たちでした。

象徴派とは、ものごとをはっきり説明せず、ほのめかすことで心の奥に届かせようとした文学の一派のことで、出世作『牧神の午後への前奏曲』(1894年初演)もマラルメの詩から生まれています。

ラヴェルも首をかしげた

ドビュッシーと並んで印象主義の代表とされるラヴェルも、この呼び名には居心地の悪さを見せ、音楽にはうまく当てはまらない言葉だと語ったことがあるそうです。

ラヴェルの楽譜は細部まできっちり組み立てられていて、ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と呼んだという話が有名なくらいですから、「あいまい」と言われて納得できなかったのも無理はありません。

それでもこの名前が残ったのは、聴く側にとって「光や水や空気を音にしたような音楽」をひとことで呼べる、便利な言葉だったからでしょう。

この記事でも、本人たちが嫌がっていたことを頭に置いたうえで、「印象主義音楽」という呼び名を使っていきます。

 

印象主義音楽の特徴

ロマン派への反発

名前のいきさつがわかったところで、肝心の音の中身を見ていきましょう。

ロマン派までの西洋音楽は、より大きく、より壮大に、より新しくという方向へ突き進んできた歴史でした。

ですが、いくら天才が次々に現れたといっても、青天井に壮大で新しいものを生み続けることはできません。

後期ロマン派になると、オーケストラはふくれ上がり、曲は長くなり、長調(明るいドレミ)と短調(暗いドレミ)のしくみでできることは、もう使いつくされてしまったと多くの作曲家が感じはじめます。

行き止まりが見えてきたところで、作曲家たちは音楽の土台そのものを組みかえる方向と、ヨーロッパの外の音楽に目を向ける方向へ動きだしました。

印象主義音楽はその先頭に立ち、「激しい感情を物語のように語る」というロマン派の中心部分を否定します。

かわりに目指したのは、光や水、風、香りといった外の世界の気配を、少し距離をおいて客観的に音へ写しとることでした。

当時の絵画を見れば、そのイメージはよりわかりやすいですよね。

3つの新しい手法

西洋音楽に限界を感じた作曲家たちは、その土台を崩していくことで、3つの新しい手法を生み出しました。

まさに、ロマン派音楽へのアンチテーゼ(正反対の立場からの反論)ですね。

①調性とリズムをぼかす

外の世界の「気配」を描くために、まず手をつけたのが調性でした。

調性とは、「ド」のような中心の音があって、曲が最後にそこへ帰ってくるしくみのことです。

ロマン派までの音楽は、この「帰る場所」から離れては戻ることで、緊張と安心の物語をつくってきました。

ドビュッシーはここに全音音階を持ちこみます。

ピアノでドから、黒い鍵盤も数に入れてひとつ飛ばしに「ド・レ・ミ・ファ♯・ソ♯・ラ♯」と弾いてみると、どの音の間隔も同じなので、長調や短調にくらべて中心の音がつかみにくく、宙に浮いたような響きになるんです。

さらに、それまでは緊張を生んで次の和音への解決を求めることが多かった不協和音を、必ずしも解決させずに響きの色として置き、同じ形の和音を上下にすべらせる平行和音も使いました。

リズムも細かく流動的になり、はっきりした拍は目立たなくなっていきます。

その結果、音楽にとって大事だとされてきた発展性やはっきりした終止感、つまり「前へ進んで、きちんと終わる」という感じを、あえて手放す作品も現れました。

こうした書き方は、当時の音楽院の先生から見れば規則やぶりです。

同じ学生だったモーリス・エマニュエルの記録によると、ピアノで和音を弾いてみせたドビュッシーに、恩師のギローが「美しいが、理論的にはばかげている」と言ったところ、彼は「理論などありません。

耳をすませばいいのです。喜びこそが規則です」と答えたそうです。

決まりよりも自分の耳を信じるというこの態度が、新しい響きの出発点でした。

なお、調性を完全に手放してしまう「無調」や、12の音をすべて平等に扱う「十二音技法」は、このあとシェーンベルクが進めた別の流れです。

印象主義は調性を壊したのではなく、ぼかして広げたのだと考えると、聴いたときの印象とも合いやすいと思います。

作曲家として生きている私も、調性をぼかす手段として十二音技法に取り組んだことがありますが、これはうまくいきませんでした。

12の音をすべて使おうとすると、調性がぼけるどころか、細かな転調をくり返すような曲になったんです。

結局その転調は、まるで平行和音のような使い方となり、今の自分の音楽の礎になっています。

②古い時代の音楽をよみがえらせる

長調と短調にかわる音の並びを探す中で、作曲家たちは時代をさかのぼりました。

たどり着いたのが、中世やルネサンスの教会音楽で使われていた教会旋法(長調・短調が主役になる前の、古い音階)です。

形式の面でも、ソナタ形式や交響曲、弦楽四重奏といった、古典派からロマン派にかけて育った理にかなった型から離れ、簡潔で明快なつくりを目指す作品が増えていきます。

ドビュッシーの前奏曲『沈める寺』では、中世の聖歌を思わせる和音の平行移動が、海の底から大聖堂が浮かび上がってくる場面をつくっています。

いちばん新しい音楽をつくるために、いちばん古い音楽を掘り起こしたわけです。

③エキゾチズムを取り入れる

時間をさかのぼるのと同時に、目は地図の外側にも向かいました。エキゾチズムとは、ヨーロッパから見た「異国らしさ」へのあこがれのことです。

大航海時代から続く航海技術の進歩や運河の建設で世界はどんどん小さくなり、各地の民族音楽が少しずつ身近なものになっていました。

この流れはドビュッシーより前から始まっていて、ビゼーの歌劇『カルメン』(1875年)やシャブリエの狂詩曲『スペイン』(1883年)がスペインを描いています。

サン=サーンスは『アルジェリア組曲』(1880年)、幻想曲『アフリカ』(1891年)、ピアノ協奏曲第5番『エジプト風』(1896年)と、アフリカの響きを次々に取り入れました。

こうして西洋音楽史に、エスニックな色が濃く加わりはじめます。

ただ、これらは「異国の風景をヨーロッパの音楽で描いた」作品でした。

ドビュッシーはそこからもう一歩進んで、異国の音楽の「しくみ」そのものを自分の曲に取りこもうとします。

そのきっかけになったのが、冒頭で紹介した1889年のパリ万博でした。

ジャワの村は、アンヴァリッド広場に設けられたオランダ領東インド(今のインドネシア)の展示のひとつで、友人のロベール・ゴデは、ドビュッシーがそこで実り多い時間を何時間も過ごしたと振り返っています。

あの「幽霊」の手紙も、友人で詩人のピエール・ルイスにあてて1895年に書かれたものです。

熱は年月がたっても冷めず、1913年の評論では「ジャワの音楽には、パレストリーナの対位法(複数の旋律を重ねる技)が子どもの遊びに見えるほどの対位法がある」とまで述べました。

パレストリーナはルネサンスを代表する教会音楽の大家ですから、当時のヨーロッパの音楽家としては、かなり大胆な発言だったはずです。

5つの音でできた音階が鐘のように重なるピアノ曲『塔』(1903年、『版画』の第1曲)を聴くと、万博で受けた衝撃が十数年たっても消えていなかったことが伝わってきます。

ガムランと並んでドビュッシーをとらえたもうひとつの東洋が、日本の浮世絵でした。

1905年に出版された管弦楽曲『海』の初版楽譜の表紙には、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』から波の部分を切り取った図柄が使われています。

メトロポリタン美術館の解説によれば、表紙のデザインに強くこだわったのはドビュッシー自身で、1910年にパリの自宅で撮られた写真にも、壁に掛かったこの版画が写っているそうです。

『海』には「3つの交響的素描」という副題がついていて、素描とはスケッチのこと。

フランス音楽の新しい扉を開いた作品の顔が江戸の絵師の波だったというのは、日本で音楽を聴く私たちには、ちょっと誇らしい話ではないでしょうか。

新しい響きは時代の空気の中にあった――ファネリ事件

ここまで読むと、印象主義音楽はドビュッシーひとりの発明のように見えるかもしれません。

ところが1912年のパリで、その見方をゆさぶる出来事が起きています。

オーケストラの打楽器奏者として暮らしを立てていたエルネスト・ファネリという無名の音楽家が、楽譜を書き写す仕事を求めて、指揮者で作曲家のガブリエル・ピエルネを訪ねました。

見本として差し出したのが、自分で1880年代に書いた『交響的絵画』という管弦楽曲の楽譜です。

ゴーティエの小説『ミイラ物語』をもとにしたこの曲を見たピエルネは、字の美しさよりも音楽そのものに驚き、その年のうちに第1部『テーベ』を自分の指揮で初演しました。

ピエルネは、この曲には現代の巨匠たちが使っている原理と手法がすべて入っていて、ファネリは私たちの時代をみごとに予告していた、という意味のことを述べたと伝えられています。

ドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を発表するより前に書かれた曲だったので、パリの音楽界は「本当の先駆者はファネリだったのか」と騒ぎになりました。

当のドビュッシーは、音楽の装飾に対する鋭い感覚はあるが、細かな描写にこだわりすぎて方向を見失っている、という趣旨の評を残しています。

ラヴェルの反応は資料によって伝わり方が分かれていて、「ドビュッシーの印象主義の出どころがわかった」と言ったとする話と、こうした新しさは過去の作曲家にも見られると冷静に指摘したとする話の両方があります。

ファネリの名はその後ほとんど忘れられてしまいましたが、新しい響きがひとりの天才の頭の中だけでなく、時代の空気の中にただよっていたことを、この事件は教えてくれます。

 

西洋音楽史の「終わりの始まり」

時代の空気が生んだ印象主義音楽は、1000年も続いた西洋音楽の歴史が、大きな区切りへ向かう入り口でもありました。

現在のクラシックの演奏会では、今の作曲家の新しい作品も演奏されていますが、レパートリーの中心を占めているのは、18世紀から20世紀前半に書かれた作品です。

筆者は、ひとつの大きな流れとして発展してきた西洋音楽史は、その20世紀なかばにいったん終焉を迎えたと考えていて、そこへ向かう動きは印象主義の時代から少しずつ始まっていました。

これには、内的要因と外的要因が複雑に絡んでいます。

内的要因――音楽の土台を自分で崩した

理由のひとつは、音楽そのものの中にあります。

印象主義が始めた「ロマン派ばなれ」は、次の世代でさらに進みました。シェーンベルクは1908年ごろから調性を手放し、1920年代には十二音技法にたどり着きます。

ストラヴィンスキーは1913年の『春の祭典』で、規則正しい拍子という常識をひっくり返しました。

※画像はイメージです

調性とリズムは、中世から少しずつ積み上げられてきた西洋音楽の柱です。

その柱を自分たちの手で意図的に崩し、ヨーロッパの外から新しい材料を運びこんだことで、長いあいだ発展を続けてきた西洋音楽史の大きな流れは、いったん足を止めることになりました。

指揮者で作曲家のブーレーズが、現代の音楽は『牧神の午後への前奏曲』のフルートとともに目を覚ましたという意味の言葉を残しているのも、この曲がり角を指しているのでしょう。

外的要因――聴き手の世界が壊れた

もうひとつの理由は、音楽の外側にあります。

西洋音楽を長く支えてきたのは、まず教会、次に王や貴族でしたが、19世紀にはその力が弱まり、ブルジョワ(商工業で豊かになった市民層)が演奏会やオペラの主な支え手になっていました。

そのブルジョワの時代に、列強の帝国主義はさらに進みます。

列強どうしは、いわば紳士協定のような取り決めを結んで衝突を避けていたので、大きな戦争は回避されそうにも見えました。

と思いきや、1914年にオーストリア=ハンガリーの帝位継承者が暗殺されたことをきっかけに、第一次世界大戦が始まってしまいます。

4年以上続いたこの戦争はヨーロッパ社会に甚大な被害をもたらし、音楽を支えてきた市民たちの暮らしにも、演奏活動や芸術家の生活にも、大きな打撃を与えました。

ドビュッシーも戦争が終わる前の1918年3月、砲撃を受けるパリで亡くなっています。

続く第二次世界大戦のあと、西洋の音楽はさらに多様になり、ひとつの様式で時代を説明することはできなくなっていきます。

壮大な歴史をたどってきた「ひと続きの西洋音楽史」は、ここでいったん幕を閉じた、というのが筆者の見方です。

印象主義の時代が終わる20世紀前半から、第二次世界大戦のころまでが「近代音楽」の時代です。

後期ロマン派以降には、印象主義音楽のほかにも、新ウィーン楽派、新ロマン主義音楽、新古典主義音楽、国民楽派、原始主義、象徴主義と多くの流派が登場し、もうひとつの様式で時代をまとめることはできなくなっていきます。

それぞれの流派については、近代音楽の記事で改めて説明します。

 

印象主義音楽の時代の名曲を聴く

名曲は色あせません。この約30年間には、ドビュッシーやラヴェルをはじめ、たくさんの名曲が生まれました。

最初の一曲には、冒頭のフルートだけで別世界に連れていかれる『牧神の午後への前奏曲』をおすすめします。

そのあとにピアノの『月の光』や『塔』、ラヴェルの『水の戯れ』(1901年)へ進むと、この記事で紹介した全音音階やガムランの響きを、自分の耳で確かめられるはずです。

ここで挙げた曲は、音楽聴き放題サービスでも聴くことができます。

無料のお試し期間があるサービスもあるので、気になった曲から再生してみてください。

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西洋音楽の時代区分をもっと知る

クラシック全体を見わたせるようになると、クラシック音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。

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