目次
時代背景
今も残る”音楽の都”、ウィーンは神聖ローマ帝国(現ドイツ・オーストリア・チェコあたり)の首都として大いに栄えていました。
あまりの音楽の繁栄に、当時の優秀な音楽家がこぞってウィーンに集まってきました。
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンに代表される18世紀後半頃に活躍した作曲家もウィーンで活躍し、”ウィーン古典派”と呼ばれているのでその音楽の盛り上がりが伺えますね。
18世紀中ごろ~19世紀前半(1750~1820年頃)の西洋音楽史は「古典派時代」と呼ばれ、音楽は大きく進化していきます。
バロック音楽時代の後、新しく始まった様式ですね。
この時代、大きな社会変革の真っ只中で、下記の2つの歴史的事件が、市民の人生観や価値観が大きく変えてゆくこととなりました。
- 産業革命
- フランス革命
産業革命
イギリスでは他国に先駆けて立憲君主制が始まり、産業革命が起こります。このことにより、世の中は資本主義へ移行してゆきます。
資本主義とは、市場原理のもと、誰でも自由に努力し、競争に勝ち抜けば自分の元に資本をいくらでも集めることができるシステムですね。
この産業革命と資本主義により、急速に発言力や存在感を示してきたのが”中産階級の市民”です。
この中産階級市民は、「啓蒙思想」として知られる活動を担ってゆきます。
啓蒙思想を簡単に説明しますね。
まず、人間には「感情」と、その真逆にある「理性」とがあります。
この両者なら「理性」の方が勝っているという考えです。
つまり、それまでヨーロッパでは当たり前だった「宗教的、非科学的なカンや発想」をやめましょう。「統計や理論に基づいた、合理的で科学的な考え」が良いのだと主張したのです。
「人間は、神や王といったどんなに強い権威からも解放され、自分自身の発想を大切にし、自分で考えて生きていくべきだ」という意味ですね。
それまで、教会や王によって押さえ込まれてきた「個人」の大切さに、世の中が気づいたのです。
フランス革命
18世紀頃、フランスの王族は夜な夜なパーティーをして、惜しげもなく贅沢や散財をしていました。
あまりの金銭感覚のおかしさゆえ、国の財政が傾いてもなお、、、王族は贅沢を続けます。
もちろんその足りないお金は、市民が税金として背負うことになります。
あの有名な、「パンが無いなら、ケーキを食べたらいいじゃない」という有名な台詞がでた時代ですね。
極めて異常な時代ですね。
そんな中、1789年にフランスで絶対王政にによる貧困に耐えかねた民衆が立ち上がり、フランス革命を起こします。
聖職者14万人、貴族40万人、平民2600万人
- 君主主権・絶対王政
- 聖職者と貴族は特権階級で免税
- 身分はほぼ世襲で固定
この市民革命で特権階級を持った人々は倒され、市民が勝利します。
これを恐れた周辺諸国は、フランス革命政権を包囲する同盟を組み、これを攻撃してきます。
ですが、その大攻勢を破り跳ね返すことができました。
その功績者が”ナポレオン・ボナパルト”です。
そうなると、市民の不満はもう爆発寸前です。
そして啓蒙思想も引き金となり、1789年、絶対王政で市民を苦しめた王侯貴族を市民が襲い、全滅させるという歴史的なクーデタ、「フランス革命」が起こります。
このクーデタにより、ヨーロッパで長い間市民の思想や人生を支配していた教会や王の呪縛がなくなってしまいます。
そうなると、「市民」が世の中の中心となります。
そして、産業革命で雇い主として活躍する市民がたくさん出て、世の中を牽引してゆきます。
現代社会のように、市民が国を作り上げていく、第一歩となった事件でした。
王族や教会がその資金力で発展することとなった音楽も、徐々に市民が楽しめるものへと変化してゆくこととなりました。
古典派音楽の、誕生と進化
18世紀中頃の古典派音楽時代に入ったら、いきなりモーツァルトやベートーヴェン等の古典派音楽を象徴する音楽家が現れたのではありません。
バッハ存命のバロック後半から古典派の動きはありました。
「前古典派」と言われる時代です。
フランスのギャラント様式、イタリアの当時最先端の音楽、そしてドイツのマンハイム楽派の管弦楽法などヨーロッパ各地で現れた古典派の流れを、モーツァルトやハイドンらが取り入れまとめました。
そして、ベートーヴェンがさらにそれを進化させた、、、というのが古典派音楽時代の大きな流れです。
これらの3人は主にウィーンで活躍したので、3人合わせて「ウィーン古典派」と呼ばれています。
市民のための音楽
音楽は長い間、教会がミサなどで使う楽曲であったり、王侯貴族がサロンやオペラで楽しむものであったり、一般市民が音楽を耳にすることは極めて難しいものでした。
しかし、18世紀後半から始まる産業革命などで市民層(ブルジョワジー)が力を持ちはじめると、教会や王の力が低下し、市民が社会を動かす時代になります。
そうすると、市民はお金さえ出せばコンサートに行くことができ、楽譜や楽器を買い、贅沢な嗜好として音楽を楽しめるようになりました。
つまり、古典派の時代、音楽は「神への捧げもの」「王を賞賛し称えるためのもの」という色はどんどん薄くなっていったのです。
また、市民が社会中心になるということは、世の中の嗜好も市民層の好みに変わってきます。
バロック時代に王宮で流行ったシリアスで高貴であったオペラも、古典派時代になると、庶民にもわかりやすい喜劇的なオペラが流行るようになります。
古典派音楽時代は、市民によって音楽が生まれ、市民のために音楽が存在し、市民が楽しみ、心へと訴える音楽へと進化していったことが最も大きな特徴です。
バロック音楽を否定し、古典派音楽の幕開け
18世紀の半ばのバロック時代の後半になると、バロック音楽は荘厳すぎてものものしすぎると異を唱える人が多くなりました。
そのバロック音楽を否定し、より素朴で人間的で感傷的な曲調、そして流麗で明快なメロディを伴ったホモフォニックの音楽が主流となりました。これがギャラント様式です。
この「前古典派」時代のギャラント様式を経由して、交響曲等を特徴とする本格的な「古典派」音楽がはじまることとなります。
ソナタ形式の誕生と、交響曲の完成
交響曲の原型は、バロック時代からできており、古典派の時代になって完成を見せるのですが、ソナタ形式は古典派に入ってからはじめて登場します。
そして、楽器も大いに発達し、声楽曲中心から器楽曲中心へと移りかわり、交響曲以外にも、協奏曲、弦楽四重奏等といった音楽スタイルの楽曲が数多く生み出さます。
この頃は作曲家の世代交代の時期で、バロック音楽は時代遅れと評価されるようになります。バッハでさえも同様で、再評価されるまで100年以上の月日がかかりました。
古典派前期はハイドンやモーツァルト、後期はベートヴェンが活躍しました。
ピアノの誕生
チェンバロ(ハープシコード)の楽器が進化し、フォルテピアノ(現在のピアノの前身)が開発され、後の音楽に大きな影響を与えました。
わかりやすいメロディの音楽へ
バロック時代や前古典派の時代から、聴きやすくわかりやすいメロディは確かにありました。
しかしメロディだけで歌ってみると、どこかぎこちなく、気持ちよく歌える曲はあまりありません。通奏低音に支配される低音が目立った上でのメロディなので、主役のメロディはあまり自由感がないのですね。
でも古典派の時代は、通奏低音が衰退します。メロディと低音の比重が変わり、メロディの比重と独立性がかなり高くなりました。
また、対位法的な技巧も最小限にとどめられるようになります。
その結果、気持ちよく歌えるような軽快なメロディがたくさん生まれ、この時代の特徴となりました。メロディに低音や伴奏がつくという現在の音楽スタイルとなるのが、この古典派音楽の時代です。
王や教会からの解放感が、このメロディの飛躍感を生んだのかもしれません。
これがバロック音楽と古典派音楽の大きな違いです。
現在のような、作曲家としての仕事が生まれてゆく
作曲家が得る報酬のスタイル
当時、音楽の中心となりつつあったオーストリアやドイツは、神聖ローマ帝国により統治されており、ウィーンは最も優雅で豪華な都市でした。
そこではもちろん音楽も盛んに行われており、音楽の仕事を求めて各地から才能のある音楽家が職を求めて集まってきました。その職の中でも、宮廷楽長や宮廷作曲家の地位は人気があり、多くの人がそのポジションを狙って切磋琢磨していました。
バロック時代のバッハをはじめ、クラシックの巨匠といわれる人たちはほぼみんなそうですが、この時代、どこかの教会や宮廷などに属して、音楽監督や宮廷楽長や専属演奏家にならなければ、音楽で生計を立てることがかなり難しい世の中でした。その仕事をしている合間に作曲をしていたのですね。
しかし、音楽家や作曲家の社会的な地位は決して高くはなく、「たかだか宮廷や教会に仕える一職人」という認識以上にはなかなかなりませんでした。メリットとしては、音楽家にしては高い給料を安定してもらえるというところですね。
新しい仕事、報酬のスタイルの確立
そんな中、世の中に産業革命が起き、世の中が資本主義へと突入していきます。
資本主義とは、頑張って競争に勝てば資本が集めることができ、より強くなっていくという市場原理に基づいたシステムですね。
音楽界にももちろん競争原理が働きます。作曲家は、自分自身が生み出した音楽の価値を高くするべくよい作品を作るようになります。
そして高い評価の集まった楽曲には、楽譜の販売や演奏会が行なわれ、作曲家に資本(お金)が集まってくるわけですね。
そして資本が集まるようになった作曲家は、もちろん教会や宮廷に所属する必要が無くなり、自分の作品を作ることにより生きていける世の中へと変化してゆきました。
つまり、フリーの音楽家が生きてゆける社会です。
この時代に「音楽業界」の原型ができあがります。
演奏会による報酬
自分で作曲した楽曲を披露するため、コンサートホールを借りて人を集めるという手法が始まりました。
人気作曲家は、チケット販売により莫大な利益を得ることができるようになります。
現在のように、コンサートを宣伝したり、チケットを手配する人がいる形式は、なんとこの時代にすでに確立していました。
譜面の流通
お金を出して楽器を買うことができるようになった市民は、自らの手で楽曲を演奏することを好むようになります。
そのため、人気のある楽曲の譜面はたくさん売れ、その売り上げが作曲家に入ってくるようになりました。
印刷技術の向上もあり、楽譜出版が一大産業となりました。
モーツァルトの悲劇
モーツァルトは、雇われていたザルツブルグの大司教との折り合いが悪くなり辞職してしまいます。その後はウィーンに渡り、定職の無いフリーの音楽家として活動していきます。ピアノの先生や自分の音楽の演奏会をしたり、譜面の出版をして収入を得ていました。
しかしこの時代、フリーの音楽家が生きていくには時代が早すぎました。天才モーツァルトであってしても、音楽活動に対する報酬は生活できるほど十分なものではなく、家計はどんどん悪化してしまいます。
こうして、作曲家として最も油の乗るはずの時期を、苦しんで苦しんで過ごしてしまいます。
この沈み行くモーツァルトに反して、時代は徐々に変化していきます。
モーツァルト晩年の18世紀の末頃からは出版社がたくさん設立され、楽譜の出版にも当時としてはかなりまとまった額で謝礼が支払われるようになります。そうなることにより、音楽家の収入は増え、宮廷や教会などに属する必要が薄くなり、フリーの作曲家が生きていける時代へと変遷していきます。
モーツァルトは、このように作曲家が生きてゆける時代変革を前にして、18世紀末亡くなってしまう、不遇の作曲家でもありました。
型にはまらない天才に、時代がまだついていけなかったのですね。
古典派時代の作曲家
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートヴェン
ムツィオ・クレメンティ
ルイジ・ケルビーニ
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ベートーベンとフランス革命
フランス革命後、各国は革命が波及することを恐れ、フランス革命政権を包囲してこれを倒そうとします。
ですが、そんな大ピンチの中、数々の修羅場を奇跡のようにくぐりぬけてフランス革命政権は生き延びることができました。
その時大活躍したのがナポレオン・ボナパルトです。
その英雄ぶりにほれ込んだベートーベンは、なんと1803~04年ごろ、ナポレオンをたたえる交響曲「ボナパルト」を作ってしまいます。
いつかナポレオンにこの曲をささげることを夢見ていたのでしょう。
ベートーベン自身も、この曲を大変気に入っていたそうです。
ですが考えてみてください!
ナポレオンは”フランス軍”、ベートーベンは”神聖ローマ帝国軍”です。
お互い侵略戦争の真っ最中ですね。
ベートーベンはウィーンにいた頃、フランス軍に攻められ、あやうく命を落としそうになったこともあるほど戦火は激しかったそうです。
これでもナポレオンに心酔していたんですね。
そんなベートーベンに、衝撃的なニュースが飛び込んできます。
ナポレオンが皇帝に就任し、独裁をはじめます。
この知らせベートーベンは、「結局やつも権力におぼれる俗物だったか」と憤慨し、交響曲ボナパルトの表紙に書かれた「ボナパルト」というタイトルをペンでぐちゃぐちゃにして、表紙を破ってしまったそうです。
こうしてナポレオンに献上されることが無くなったこの楽曲は、タイトルが変更されて現在にも残っています。
これが誰もが知っている名曲、「交響曲第3番 英雄(エロイカ)」です。
古典派時代に使われた楽器
新しくできた楽器
ピアノ
バロックの後期に原型ができていましたが、古典派の時代になって現在のような形になってきました。
実は、あのバッハもピアノの試作品を引いたことがあるそうです。その時、あまりよい評価はしかかったようですね。
その他の主な、クラシックの時代を知ろう!
クラシック全体を見ることができるようになると、クラシック音楽の理解は10倍にも20倍にもなります。もし良かったら、合わせて他の時代も知ってみてくださいね!