作曲家はどう生計を立ててた?「お金」でたどるクラシック音楽の歴史

音楽室の壁に、作曲家の肖像画が並んでいましたよね。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン。あの人たちが何年に生まれて何を書いたかは、テストのために覚えました。

でも正直なところ、あれが頭に残った人はほとんどいないはずです。私も残りませんでした。

流れが見えるようになったのは、まったく別の疑問を持ってからです。

この人たちは、誰から給料をもらっていたのだろう。

これがきっかけでした。バッハの給料明細を見て、ハイドンの雇用契約を読んで、ベートーヴェンが貴族と結んだ年金契約の中身を知ったとき、バラバラだった年号が一本の線でつながったんです。

音楽史というのは、要するに「音楽の代金を誰が払っていたか」の歴史でした。

そしてスポンサーが変わるたびに、音楽そのものの形が変わっている。

教会が払っていた時代の音楽と、チケット代で成り立つ時代の音楽が、同じ形をしているはずがないんですよね。

この記事では、中世から20世紀までのおよそ1000年を、この一本の補助線で通して見ていきます。

時代区分と代表曲の暗記ではなく、お金と権力と技術の話として。そのほうが、たぶん面白いです。

目次

この記事の見取り図

先に全体像を置いておきます。細かい部分はあとで説明しますので、いまは「支払う人」の列だけ目で追ってみてください。

時代 おおよその年代 音楽にお金を出した人 音楽が鳴っていた場所 決定的な出来事
中世 〜1400年頃 教会・修道院 聖堂 記譜法の普及(9世紀〜)
ルネサンス 1400〜1600年頃 教会+宮廷 聖堂・宮廷 楽譜印刷(1501年)
バロック 1600〜1750年 宮廷・教会・有料の客 宮廷・教会・劇場 公開オペラ劇場の誕生(1637年)
古典派 1750〜1820年頃 貴族から市民へ移行 サロン・予約演奏会 楽譜の著作権が司法で確認される(1777年)
ロマン派 19世紀 市民・出版社・興行 公開演奏会場・家庭 ピアノの量産と鉄道網
近現代 20世紀〜 国家・レコード会社・放送 録音・電波・ホール 録音技術と全体主義国家

見ていただくとわかりますが、20世紀で「国家」が戻ってきています。教会 → 宮廷 → 市民 → 国家。

ぐるっと一周しているんですね。

ここが個人的にはいちばんゾクッとするポイントなのですが、その話は最後にします。

第1章 中世──教会は「芸術のため」に楽譜を広めたのではない

旋律を正確に書き残す手段が、まだなかった

いまの私たちは、音楽が形に残るのを当たり前だと思っています。

楽譜があり、録音があり、スマホの中に何万曲も入っている。

ところが8世紀の西ヨーロッパには、聖歌の旋律を正確に書き留めるための実用的な記譜法が、まだ普及していませんでした。

音の高さを文字で示す方法自体は古代から知られていたものの、日々の典礼の現場で使えるものではなかったのです。

伝えるには人から人へ口伝えするしかない。

そして口伝えというのは、必ず変わります。

数世代も経てば、同じ聖歌がフランスとイタリアで別の旋律になっている、、、これが、教会にとっては都合が悪かった。

背景には、信仰だけでなく政治がありました

8世紀半ば、フランク王国のピピン3世はローマ教皇と手を組みます。

教皇領をランゴバルド人から守るかわりに、王としての正統性を認めてもらう。

この取引の一環として、フランク王国の教会にローマ式の典礼が導入されていきました。

息子のカール大帝の代になると、この統一はさらに徹底されます。

つまり、「帝国じゅうの教会で、同じ祈りを、同じ歌で」という号令がかかったわけです。

広大な領域を一つにまとめるための、極めて政治的な事業でした。

ところが現場では、これがうまくいかない。ローマから歌い手を呼んで教えても、

その人が帰ったら記憶があやふやになる。正確さが担保できないのです。

そこで9世紀前半、およそ825年から850年頃、テキストの行間に小さな記号を書き込む習慣が生まれました。これがネウマ譜です。

面白いのは、初期のネウマが音の高さを示していなかったことです。

旋律が上がるのか下がるのか、どこで区切るのか──いわば音楽の句読点でした。

誰かに新しい歌を教えるためのものではなく、すでに知っている歌を忘れないための備忘録だったんですね。

少なくとも初期の記譜法には、音楽を美しくするというより、聖歌を各地で正しく伝えるための「品質管理」に近い役割がありました。ここ、けっこう大事だと思っています。

訓練期間を10年から1年に縮めた男

そこから200年ほど経った11世紀、イタリアの修道士グイード・ダレッツォが登場します。

線を引いて音の高さを固定し、音名に名前をつけた人です。

彼の言葉として伝えられているのが、「従来なら聖歌のレパートリーを覚えるのに10年かかったが、この方法なら1年か2年で済む」という趣旨のものです。

動機がまた実務的で、要は歌の暗記に人生を費やすくらいなら、その時間を聖書の研究に使いなさい、と。

ちなみに「ドレミファソラ」の語源は、聖ヨハネ賛歌『Ut queant laxis』という聖歌の各行の頭の音節です。

Ut・Re・Mi・Fa・Sol・La。あの誰でも知っている6音は、11世紀の修道院の暗記術から出てきたものなんですね。

私はこれを知ったとき、しばらく人に話したくてたまりませんでした。

書けるようになったから、複雑にできた

そして記譜法が整っていくと、思いがけない副作用が起きます。

覚えられる範囲でしか作れなかった音楽が、書ける範囲まで広がった。

12〜13世紀のパリ、ノートルダム大聖堂を拠点とした音楽家たちによって、複数の声部を組み合わせるポリフォニーと、その複雑なリズムを制御する仕組みが一気に高度化していきます。

紙の上で設計できるようになったから、音楽は複雑になれた。技術が芸術を変えた最初の例だと思います。

このテーマだけで一本書けます。詳しくは → 「教会が楽譜を発明した──ヨーロッパ音楽1000年の土台」(※個別記事へリンク)

第2章 ルネサンス──印刷機が、音楽を「商品」に変えた

1501年、ヴェネツィアの印刷業者オッタヴィアーノ・ペトルッチが『オデカトン』という曲集を出版します。

可動活字で多声音楽を印刷した、最初期の本格的な例です。

五線と音符と歌詞を、それぞれ別の工程で刷り重ねる必要があったので、技術的にはかなりの難物でした。

当然コストは高く、買えるのは裕福な層に限られました。

ですがこれは、楽譜が大量に複製して販売できる商品になったという、大きな決定的な転換点となりました。

もちろん印刷以前にも、写本という形で楽譜は流通していました。

ただ、一冊を作るのに写字生が何日もかけるものと、同じ版から何百部も刷れるものとでは、届く範囲がまるで違います。

作曲者が一生会うことのない誰かの手に渡り、見たこともない街で演奏される、、、音楽がそれまでとは比較にならない規模で「場所」から切り離されていったのが、この時代でした。

同じ16世紀には宗教改革も起きています。

ルターは会衆自身がドイツ語で歌うコラールを重視しました。

専門の聖歌隊が歌うのを聴くのではなく、信者が全員で歌うということが行われたことも、音楽の担い手を広げる動きでした。

しかも印刷術と相性が抜群で、讃美歌集はよく売れたのです。

一方のカトリック側もトリエント公会議で音楽のあり方を議論します。

歌詞が聞き取れないほど複雑なポリフォニーへの批判が出た、という話は有名ですね。

宗教が割れると、音楽も割れる、、、そしてその両方を、印刷業者が売っていました。

第3章 バロック──「市民がお金を払う音楽」は、革命の150年前に始まっていた

1637年、ヴェネツィアで何が起きたか

ここが、この記事でいちばんお伝えしたい部分かもしれません。

よく、「フランス革命で貴族が没落し、音楽は市民のものになった」と言われますが、間違いではありませんが、ただ、ちょっとだけ雑かもしれません。

市民がチケットを買って音楽を聴く仕組みは、フランス革命よりおよそ150年も早く始まっています。

入場料を払えば誰でも入れる世界初のオペラ劇場は、ヴェネツィアのサン・カッシアーノ劇場とされています。

こけら落としはマネッリの『アンドロメダ』でした。

それまでオペラは、宮廷の祝い事のために上演される私的な催しで、招かれた人しか観られませんでした。

ところがヴェネツィアは共和国であり、交易で財を成した商人の街です。

そこに「金を払えば観られる」劇場が現れました。

5層におよそ150もの桟敷席が並び、有力な家はそれを年間で借りるという、いまの野球場の年間シート、あるいは劇場のボックス席そのままの仕組みです。

しかも、これは商売なので、客が入らなければ潰れるます。

作曲家たちは、不特定多数の客に受けるかどうかを、それまで以上に強く意識する立場に置かれたわけです。

ヴェネツィアのオペラに派手な舞台転換や歌手の見せ場が増えていくのは、自然な流れでした。

音楽が興行になった瞬間を、私たちは1789年ではなく1637年に置いたほうがいい。

この一点だけでも、この記事を書いた価値があると思っています。

一方その頃、バッハは葬式の数を数えていた

同じバロック期でも、ドイツの事情はまったく違いました。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハがライプツィヒのトーマス教会で働いていた頃の収入について、本人が書き残した手紙が残っています。

1730年10月28日、旧友のゲオルク・エルトマンに宛てたものです。

そこでバッハは、自分の収入がおよそ700ライヒスターラーだと書いたうえで、こんなことを言っています。

普段より葬儀が多ければ、それに応じて臨時収入も増える。しかし空気が健康な年は、逆に減ってしまう。

そして、前の年は葬儀が少なかったせいで100ターラー以上の減収になった、と嘆いているのです。

……教会音楽の頂点に立つ人が、街に病気が流行らないと生活が苦しい、と手紙に書いている。初めて読んだとき、私は少し言葉を失いました。

でもこれが当時の音楽家の現実です。ライプツィヒに着任した1723年からの数年間、バッハは年間およそ60回にのぼる礼拝の機会に合わせてカンタータを供給し続けました。

少年たちに歌を教え、契約上はラテン語の授業まで受け持つことになっていた(この分は早々に代理の教師へ任せてしまったようですが)。

芸術家というより、教会という組織の中間管理職です。作品は「発表」するものではなく、業務として「納品」するものでした。

この手紙でバッハは、待遇の悪さと上司の無理解を並べたあと、どこでもいいから転職したいとまで書いています。

人間くさくて、なんだか安心しませんか。

第4章 古典派──作曲家の「独立」を、契約書3通で読む

古典派の解説はたいてい「ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの時代」で片づけられます。

でも、この3人のあいだで起きたことを契約書のレベルで見ると、まったく違う景色になります。

1761年 ハイドン──制服を着た使用人

ハイドンがエステルハージ侯爵家に仕えたときの立場は、率直に言って使用人でした。

制服を着て、決められた時刻に主人の前に現れ、求められた曲を書く。

そして重要なのは、書いた曲が自分のものではなかったことです。作曲物は雇い主の財産とされ、他人のために書くことも、勝手に売り渡すことも制限されていました。

いまの感覚だと信じられないのですが、当時の作曲家にとっては当たり前の条件でした。

1779年 ハイドン──契約更新で、鎖が外れる

ところが1779年、契約を結び直したときに条件が変わります。

独占条項が消え、作品を出版社に売ることが認められたのです。

ハイドンはすぐに動きました。室内楽を中心に楽譜を出し、それがヨーロッパじゅうに広まっていく。

彼の作品はそれ以前から各地に流通していましたが、この契約更新以降、出版社を通じた流通は正規のルートで一気に拡大し、国際的な名声はいっそう大きなものになっていきます。

のちにロンドンに招かれて大成功するのも、この延長線上にあります。

ハイドンの人生を動かしたのは、傑作の完成というより契約書の一条項だったわけです。音楽史の教科書はまずここを書きません。

1777年 ロンドン──楽譜が著作権法の対象だと確認された日

その少し前、イギリスで一つの裁判が起きています。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(大バッハの末子で、ロンドンで活躍していました)が、出版社ロングマンを相手取って訴えた事件です。

当時、1710年のアン女王法が保護するのは「書物」であって、楽譜は含まれないという理解が広まっていました。

判断を下したのはマンスフィールド卿です。

彼は法の趣旨を検討したうえで、書かれた音楽もまた法にいう「著作物」に含まれる、と判示します。

もちろん、それ以前にも出版特権のような別の保護手段はありました。

ただ、少なくともイギリスでは、楽譜も著作権法の保護対象であることが司法判断によってはっきり示されたのです。

作曲家が「雇われる」以外に、作品の権利そのもので収入を得ていく道が、制度として整えられていきました。

フリーランスの音楽家が19世紀に増えていく前提の一つが、ここにあります。

1781年 モーツァルト──決裂

ザルツブルクのコロレド大司教のもとで働いていたモーツァルトが、主人と衝突してウィーンで独立するのが1781年です。有名な話ですね。

ただ、美談として語られすぎている面もあります。

独立には市場が必要です。

当時のウィーンではその市場が育ちつつあり、予約演奏会や作曲、レッスンで彼がかなりの高収入を得た時期も実際にありました。

それでも収入を安定させるのは容易ではなく、晩年は借金を頼む手紙を何通も書いています。

自由には、それを支える仕組みがいる。そのことを身をもって示した人だったのだと思います。

1809年 ベートーヴェン──雇われずに、支援される

そして1809年3月1日、ベートーヴェンはルドルフ大公、ロプコヴィツ侯爵、キンスキー侯爵の3人と年金契約を結びます。

内訳はキンスキー侯爵1800、ルドルフ大公1500、ロプコヴィツ侯爵700で、合計年4000グルデン。

全当事者の署名が入った第二正本が、現在もベートーヴェン・ハウスに残っています

この契約が画期的だったのは、ベートーヴェンが誰の使用人にもならなかったことです。

制服も着ないし、命じられた曲を書く義務もない。

条件はカッセルからの誘いを断り、ウィーンかオーストリア皇帝の世襲領内の都市に住むことでした。

仕事や芸術上の必要があれば一時的に離れてもよく、旅そのものが禁じられていたわけではありません。

年金は、同等の報酬を得られる職に就くまで支払われる約束でした。

パトロンが「雇い主」から「出資者」に変わったわけです。ハイドンの1761年から半世紀足らずで、ここまで来ました。

ただし、話はきれいに終わりません。

ナポレオン戦争の戦費でオーストリアの財政は破綻寸前で、紙幣の価値は契約直後から下がり続けます。

ベートーヴェン・ハウスの資料によれば、契約時の4000グルデン(紙幣)は銀貨に換算しておよそ1620グルデン相当でしたが、1810年12月にはわずか416グルデン相当まで落ち込みました。

そして1811年2月、政府は財政パテントによって銀行券を額面の5分の1に切り下げます。

追い打ちをかけるように、1812年にはキンスキー侯爵が落馬事故で急死しました。

支払いは止まり、ベートーヴェンは遺族に手紙を書き、法的な手続きにも及びます。決着がついて支払いが再開されるのは1815年のことでした。

自由を手に入れた作曲家が、その自由の代金を取り立てるために、何年も交渉と書類仕事に追われる。

そしてここに、もう一段の皮肉が乗ります。

《英雄》交響曲の筆写譜のタイトルページには「Bonaparte」の文字を激しく削り取った跡があり、紙に穴まで開いています。

ちなみに紙そのものを破り捨てたという伝説のほうは、ベートーヴェン・ハウスがはっきり否定しています。

しかも彼は後日、削り跡の横に「ボナパルトのために書かれた」と鉛筆で書き足し、1804年8月には出版社宛ての手紙で「この交響曲は本当はボナパルトという題なのだ」と伝えているのです。

その名を楽譜から削り取った男が、当のナポレオンの戦争が引き起こしたインフレで、年金を4分の1近くまで目減りさせられている。

歴史の皮肉としては、これ以上ないくらいよくできていますよね。

ナポレオンとベートーヴェンの関係は → 「『英雄』と『皇帝』──ベートーヴェンが本当につけた名前はどっち?」(※個別記事へリンク)

第5章 革命とロマン派──国家、工場、そして鉄道

フランス革命は、まず音楽家を失業させました

1789年。よく「革命が音楽を民衆に解放した」と語られますが、当事者にとっては、まず生活の崩壊でした。

宮廷が消えれば、宮廷楽士の職も消えます。教会財産の国有化も進みました。パトロンが物理的にいなくなったのです。

そこで革命政府がとった手が興味深い。

音楽を国家事業として抱え込んだのです。

祝典や式典のために大規模な野外音楽が量産されました。

広場に集まった何万人もの群衆に届かせる必要があるので、編成は大きく、旋律は単純明快になります。

ゴセックら革命期の作曲家が書いたこの手の音楽は、いま聴かれる機会こそ少ないものの、19世紀の大編成オーケストラへ向かう地ならしになったと言っていいと思います。

そして1795年、パリに音楽院(コンセルヴァトワール)が設立されます。

音楽家の養成を国家が制度として引き受ける。これは後にヨーロッパじゅうへ広がるモデルになりました。

宮廷の代わりに国家が出てきた。前章までの流れで見ると、これはかなり大きな変化です。

ロマン派で作曲家が増えた大きな理由

さて、ここも通説を疑いたいところです。

「革命で自由になったから、ロマン派の作曲家は個性を爆発させた」。

よく見る説明ですが、自由になっただけでは食べていけません。

人が増えたということは、そこに食える市場ができたということです。

その市場は、市民階級の成長や公開演奏会の定着、音楽教育の広がりといったいくつもの要素が重なって育ちました。

そのなかで見落とされがちなのが、産業革命の果たした役割です。

ピアノです。

1821年、パリのエラールがダブル・エスケープメントという機構を実用化します。

同じ鍵を素早く連打できるようになり、演奏技術の限界が一段上がりました。

1820年代半ばには鋳鉄製のフレームが登場し、より強い弦の張力に耐えられるようになり、音は大きく、構造は頑丈に、そして工業製品として量産できるようになりました。

結果、ピアノは中産階級の家庭に入っていきます。

応接間にピアノがあることが、そこそこ豊かな家庭の証になった。娘に習わせるのが流行った。

すると楽譜も売れるようになっていきます。

家庭で弾ける難易度の小品が飛ぶように売れました。

ショパンのワルツも、シューマンの小品集も、メンデルスゾーンの《無言歌》も、この市場があったから成立しています。

作曲家は「注文を受けて書く」から「売れるものを書く」に軸足を移していきました。

交通も効きました。

詩人ハイネがリストへの熱狂を「リストマニア」と呼んだのが1844年。

当時の演奏旅行は馬車も相当に使われていましたが、そこへ鉄道網の発達が重なり、巡回演奏はより効率的で大規模な興行へと変わっていきます。

移動できるから稼げる、稼げるから名声が広がる、名声が広がるからまた客が来る。

楽器そのものも工業製品として進化しました。

1810年代にバルブ機構が金管楽器に導入され、それまで限られた音しか出せなかったホルンやトランペットが自由に旋律を吹けるようになります。

1840年代にはベーム式のフルート、そしてサクソフォンが登場する。

つまり、ロマン派のあの分厚く色彩豊かなオーケストラの響きは、工業技術の産物でもあるわけです。

ワーグナーやマーラーの音は、19世紀の工場なしには鳴りません。

音楽が「祖国」を背負う

もう一つ、19世紀を特徴づけるのがナショナリズムです。

ロシア・プロイセン・オーストリアによって分割されたポーランドの出身であるショパン、ハプスブルク支配下のチェコで自国の伝説を書いたスメタナ、ロシア帝国下のフィンランドで愛国的な作品を書いたシベリウス。

音楽は、言葉が封じられた場所で人々の感情を運ぶ器になりました。

音楽が政治的な力を持ちうるということは、裏を返せば、権力にとって危険だということでもあります。

実際、19世紀のオペラは検閲との戦いの連続でした。この話も一本の記事になります。

詳しくは → 「独立運動が生んだ音楽──ショパン、スメタナ、シベリウス」「検閲と戦った作曲家たち」(※個別記事へリンク)

第6章 20世紀──録音、放送、そして国家の再登場

「4分」という枠が音楽を変えた

20世紀のはじめ、音楽史上おそらく記譜法に次ぐ大事件が起きます。録音です。

演奏がそのまま保存できる。これは記譜法とは根本的に違います。

楽譜が保存するのは「設計図」ですが、録音が保存するのは「その一回の演奏」そのものです。

そして初期のSPレコードは、片面に10インチ盤でおよそ3分、12インチ盤でも4〜5分ほどしか入りませんでした。

この物理的な制約は、そのまま音楽の作られ方に影響します。売れるのは短い曲、区切りのいい曲。長大な交響曲は何枚組にもなり、聴き手は数分ごとに立ち上がって盤をひっくり返すことになりました。

余談ですが、現代のポップスに3〜4分程度の曲が多い背景にも、こうしたレコード時代の物理的制約が一つの大きな起源としてあると言われます。

100年前の円盤の直径が、いまの私たちのプレイリストの区切りに影を落としている。技術は、こういう形で長く尾を引きます。

「クラシック=昔の名曲」になったのは、実はそんなに昔ではありません

ここでもう一つ、あまり語られない話をさせてください。

いま私たちが演奏会に行くと、演目のほとんどは死んだ作曲家の作品です。

これは異常なことだと思いませんか。

映画館に行って上映作品が全部100年前のものだったら、さすがに驚きますよね。

でも、これは昔からそうだったわけではないのです。

バッハの時代の教会に集まる人々は、その週のために書かれたばかりの新曲を聴いていました。当時の音楽は基本的に「新作」だったのです。

演奏会が過去の名曲を繰り返し演奏する場に変わっていくのは19世紀のことです。

哲学者リディア・ゴーアは、1800年前後を境に「音楽作品」という概念そのものが音楽の実践を規定するようになったと論じ、その状況を「音楽作品の想像上の博物館」と呼びました。

作品が一回きりの出来事ではなく、繰り返し展示される不変の「作品」として扱われるようになった、という捉え方です。

そこに録音が加わって、この博物館化は決定的になりました。

名演が円盤に固定され、何度でも比較できるようになったからです。

つまり「クラシック音楽は古いものだ」という私たちの感覚そのものが、19世紀以降に作られた歴史的な産物なんですね。

私はこの視点を知ったとき、ずいぶん見え方が変わりました。

そして、国家がスポンサーに戻ってきた

冒頭の表で「20世紀に国家が戻ってくる」と書いた話をします。

1932年4月、ソ連では党中央委員会の決議によって既存の音楽団体が再編され、モスクワやレニングラードなどに新しい作曲家の組織が作られていきます。

全ソ規模でのまとまりはその後段階的に進み、1939年に組織委員会が置かれ、1948年の第1回大会で体制が固まりました。

翌1933年には、ナチス政権下のドイツで帝国音楽院が設立されます。どちらも、誰が音楽家として活動できるかを国家が決める仕組みでした。

ショスタコーヴィチはその渦中を生きた人です。

1936年、党機関紙『プラウダ』でオペラを痛烈に批判され、完成間近だった交響曲第4番は初演直前に撤回されます。

そして翌1937年11月21日、レニングラードでムラヴィンスキーの指揮によって初演された交響曲第5番は大成功を収めました。

30分以上鳴りやまない拍手だったと伝えられます。当局もこれを受け入れ、彼はひとまず作曲家としての立場を取り戻しました。

この曲には「正当な批判に対するソヴィエト芸術家の実践的・創造的回答」という有名な言葉がついて回りますが、実はこれをショスタコーヴィチ自身が副題として付けたのかどうかは、はっきりしていません。

翌1938年の新聞記事で彼がこの評価に触れているものの、言い出したのが誰なのかは不明なままです。あの曲の終結部を、勝利と聴くのか、強制された歓喜と聴くのか。

議論がいまも続いているのは、出発点からしてこの曖昧さがあるからでしょう。

そして1942年8月9日、ドイツ軍に包囲された飢餓の街レニングラードで、交響曲第7番が演奏されました。

オーケストラは壊滅状態で、生き残っていた楽団員は40名中15名。

指揮者エリアスベルクも歩くのがやっとという状態で、軍楽隊から人をかき集めて本番にこぎつけています。

演奏は街じゅうのスピーカーで流されました。

しかもゴヴォロフ将軍は、ドイツ軍の陣地にも聞こえるようスピーカーを配置させています。さらに驚くのはその直前で、ソ連軍は「スクヴァル(突風)作戦」と称して3000発の砲弾をドイツ軍の砲兵陣地に撃ち込み、演奏中に砲撃されないよう封じ込めていました。

音楽が、心理戦の一部として使われた象徴的な例です。

教会と王権が音楽を通じて典礼の統一を進めた8世紀と、国家が音楽を国民統合や政治のために使った20世紀。

もちろん時代も制度も、強制の質もまったく違います。それでも、権力が音楽を「人々を一つにする力」として当てにする構図には、不思議なほど似たところがあります。

1000年かけて、音楽は一周したようにも見えるのです。

詳しくは → 「戦争が書かせた20世紀の名曲」(※個別記事へリンク)

終章 では、いま誰がお金を払っているのでしょう

戦後、この構図はさらに複雑になります。

大学が作曲家を雇い、財団が助成金を出し、公共放送が楽団を抱える。国家の顔をした支援は形を変えて残りました。

そしていま、音楽の代金を払っているのは誰でしょうか。

定期会員券を買う人。ふるさとのホールを支える自治体。

企業のメセナ。映画やゲームの製作費。それから──毎月の配信サービスの料金を払っている、私たち全員です。

その意味では、いまの時代のパトロンは史上最多の人数で構成されているとも言えます。

一人あたりの負担はエステルハージ侯爵の何百万分の一かもしれませんが、支えている構造は変わりません。誰かが払わなければ、音楽は鳴らない。

音楽史とは、その「誰か」が入れ替わってきた記録なのだと思います。

年号を覚えようとすると音楽史は退屈です。でも、お金の流れを追いかけると、これは千年続いた壮大な人間ドラマになります。

制服を着て曲を書いた男がいて、契約書一枚で自由になった男がいて、街に病気が流行らないと困ると手紙に書いた男がいる。

肖像画の下に書かれた年号を眺めていた学生時代の自分に、これを教えてやりたい。そう思いながら書きました。

当サイトでは、下記のようにたくさんのクラシックコラムを用意してあります。ぜひこちらも読んでくださいね。

■主な参照資料

  • バッハからエルトマン宛書簡(1730年10月28日)原文:Bach-Archiv / jsbach.de
  • ベートーヴェン年金契約書(1809年3月1日)および通貨価値の推移:Beethoven-Haus Bonn「Beethoven und das Geld」
  • 《英雄》交響曲タイトルページの状態:Beethoven-Haus Bonn 作品解説
  • Bach v. Longman(1777年):Primary Sources on Copyright / WIPO Magazine
  • サン・カッシアーノ劇場(1637年開場):Teatro San Cassiano 資料
  • ソビエト作曲家同盟の成立過程:Union of Composers 関連資料
  • 交響曲第5番の初演と副題をめぐる議論、第7番レニングラード初演(1942年8月9日)の経緯:関連研究および Presidential Library(ロシア)資料
  • Lydia Goehr『The Imaginary Museum of Musical Works』