和声学を人に教えようとしたとき、ふと立ち止まる問いがあります。
「美しい和音をたくさん聴けば、美しい譜面が書けるようになるのか」という問いです。
たしかに、聴いたことのない響きを書くのは難しいので、聴く量が大事だというのは正しそうに思えます。
ところが、この問いを一歩進めて「音楽を一度も聴いたことがない人は、協和音と不協和音のどちらを美しいと感じるのか」と考えると、話は急に深くなります。
私たちが「美しい」と感じている和音は、生まれつき耳に備わった感覚なのか、それとも聴いてきた音楽が作った感覚なのか。
この記事では、アマゾンの村で行われた実験と、意外なところではバイクのエンジン音をめぐる裁判沙汰まで引きながら、この問いを掘っていきます。
目次
美しい和音は「たくさん聴けば」書けるようになるのか
聴く量より、聴き方
結論から言うと、聴くことは必要ですが、ただ流して聴くだけでは足りません。
和音を聴きながら「いま何の音が重なっているか」を譜面で追う、ピアノで同じ和音を鳴らしてみる、できれば声に出して歌ってみる。
こうして耳と手と目を同時に使ったときに、響きは「知っている音」として体に残ります。
これは語学の勉強に似ていますよね。
英語のラジオをBGMのように流し続けても、単語の意味を調べて口に出さなければ話せるようにならないのと同じで、和音も「意味」を結びつけながら聴いたぶんだけ書けるようになります。
「汚い響き」も教材になる
もうひとつ大事なのは、美しい和音だけを聴いていては、美しさの正体が見えてこないということです。
和声の美しさは、きれいな和音そのものより、緊張した響きが安定した響きへほどける瞬間に生まれることが多いので、属七の和音(主音へ戻りたがる、落ち着かない和音)が主和音へ解決する流れを聴き比べるほうが、ずっと耳が育ちます。
教科書で「避けなさい」と書かれている連続5度(同じ音程で2つの声部が平行に動くこと)も、実際に鳴らして「なぜ避けるのか」を耳で確かめると腑に落ちます。
私は、禁則をルールとして暗記するより、一度わざと破って聴いてみるほうが、はるかに記憶に残ると思っています。
音楽を一度も聴いたことがない人は、和音の美しさがわかるのか
アマゾンの村で行われた実験
この問いに正面から取り組んだ研究が、2016年に科学誌『ネイチャー』に載りました。
マサチューセッツ工科大学のジョシュ・マクダーモットらが、ボリビアのアマゾン地域に暮らすチマネ族の村を訪ね、協和音と不協和音を聴かせて「心地よさ」を点数で答えてもらったのです。
チマネ族が選ばれた理由は、彼らの音楽にハーモニーや多声部、集団での演奏がほとんどないことでした。つまり、西洋音楽のような和声にほとんど触れずに育った人たちです。
結果は、西洋の常識をひっくり返すものでした。
ボリビアの都市や町に住む人たちは協和音をはっきり好み(ただしアメリカ在住者ほどではなく)、チマネ族には協和音への好みが見られなかったのです。
研究チームは、西洋の聴き手が持つ協和音への好みは、聴覚の生物学的な仕組みから必然的に生まれるのではなく、西洋音楽に触れた経験から生じるようだと結論づけています。
「違いがわかる」と「美しいと感じる」は別の能力
ここで見落としてはいけない点があります。
チマネ族は、協和音と不協和音の「違い」が分からなかったわけではないのです。
マクダーモットによれば、チマネ族は倍音がきれいに整った音とそうでない音を聴き分けることはできたものの、整った音のほうを好みはしなかったといいます。
つまり「聴き分ける力」と「どちらを美しいと感じるか」は、別の能力だということです。
違いを感じ取る耳は人間に共通して備わっていそうなのに、その違いに「美しい」「汚い」という評価を貼りつけるのは、育った文化の仕事なんです。
冒頭の質問に戻るなら、音楽を知らない人は「両方が違う音だ」とは分かるけれど、「こちらが美しい」とは必ずしも言わない、というのが現時点での答えになります。
ただし、生まれつきの土台もゼロではない
とはいえ、「全部が文化で決まる」と言い切るのも早すぎます。
後の研究者からは、この実験では極端に濁った和音が使われておらず、よく見るとチマネ族も、短2度や長2度のような近接した音程で生じる「うなり」や粗さには嫌悪を示していたという指摘が出ています。
日本の研究も面白い手がかりをくれます。
2009年に発表されたチンパンジーの赤ちゃん「サクラ」の実験では、紐を引くと協和的な音楽か不協和的な音楽のどちらかが流れる仕組みを作ったところ、6種類の刺激ペアすべてで協和バージョンの再生時間が長く、統計的にも有意だったそうです。
音楽経験のほとんどないチンパンジーの乳児が協和音楽を好んだことは、この傾向が経験の影響がごく少なくても発達の早い段階から現れることを示していると発表資料は述べつつ、1個体の結果なので普遍性はさらに検討が必要とも添えています。
私の整理はこうです。音がぶつかる「うなり」を避けたがる土台は、人間を含む動物にうっすら備わっている。
けれど、その土台の上に「ドミソは美しい」「この進行は泣ける」という細かな感覚を積み上げるのは、聴いてきた音楽の仕事である。
生まれつきと経験は、どちらか一方ではなく、階層が違うのだと思います。
エンジン音を聴き分ける人の耳で、何が起きているのか
ハーレーが商標登録しようとした「音」
ここで、音楽からいったん離れます。車やバイクのエンジン音を聴いただけで車種を言い当て、さらに「このエンジンは良い音だ」と評価する人がいますが、そういう人の耳では何が起きているのでしょうか。
この疑問にうってつけの事件があります。
1994年2月1日、ハーレーダビッドソンは自社のバイクのエンジン音そのものを商標として登録しようと出願しました。
出願書には「V型2気筒・共通クランクピンのエンジンが動いているときに出る排気音」と書かれています。
同社はこの音を「ポテト・ポテト・ポテト」と表現しており、ブランドの顔として法律で守ろうとしたわけです。
ところが競合9社が反対意見を出しました。
クルーザータイプのバイクはどのメーカーも似た構造のエンジンを積んでいて、似た音が出るという主張です。
ヤマハ、ホンダ、カワサキなどが6年にわたって争い、ハーレーは2000年に出願を取り下げました。
雑音が「意味のある音」に変わる瞬間
この話が和声の話とつながるのは、「商標として争えるほど、特定の音を聴き分けて好む人がたくさんいた」という事実があるからです。
エンジン音は、音楽と同じく、知らない人には雑音でしかありません。
それでもハーレー乗りには「ポテト・ポテト」が自分のバイクの音として聴こえ、他社の似た音と区別できる。
これは生まれつきの耳ではなく、何年もまたがって、名前と愛着を音に結びつけてきた結果です。
さらに興味深い後日談があります。
ホンダのシャドウというバイクは「ハーレーの音がしない」と買い手から不満が出たため、1996年にハーレーに近い音が出る設計のモデルを追加したと伝えられています。
多くの人が「良いエンジン音」として学習した基準に、他社が合わせにいったわけです。
「美しい」の基準が経験で作られ、しかも社会の中で共有されていく様子が、音楽の外でもそっくり起きているんですよね。
和声を教えるときに、この3つの話が役に立つ理由
最初に「分からなくて当然」と伝える
ここまでの話を教える側の視点でまとめると、最初にやるべきことが見えてきます。
初めて和声を学ぶ人が「ドミナントの緊張感が分からない」と言ったとき、それは才能の問題ではなく、まだその響きに意味が結びついていないだけです。
エンジン音が雑音に聴こえる筆者と、同じ状態なんです。
だから授業の最初に「和音の美しさは聴いた経験で育つものだから、今は分からなくていい」と伝えておくと、生徒は安心して耳を使い始めます。
チマネ族の実験を一枚のスライドで見せるだけでも、「自分の耳はおかしくない」という納得が得られるはずです。
響きに名前と場面を結びつける
そのうえで、エンジン音を聴き分ける人がやってきたことを、意図的に授業に組み込みます。
比べて聴かせる
協和音だけを並べるのではなく、同じメロディを「正しい進行」と「連続5度を含む進行」で弾き比べたり、解決する属七と解決しない属七を続けて聴かせたりします。
違いは比較があって初めて浮かび上がるので、単独で美しい例を聴かせるよりずっと効率がいいです。
名前をつける
「これがドミナント」「これが偽終止(終わると見せかけて別の和音へ逃げる進行)」と、鳴らしたその場で名前を言います。
ハーレー乗りが「ポテト・ポテト」と呼んだように、名前がつくと音は記憶の棚に収まります。
場面と結ぶ
映画やゲームの印象的な場面で使われている和音進行を、その場面の映像と一緒に聴かせます。
「怖い場面でこの響き」「泣ける場面でこの進行」という結びつきができると、理論で覚えた和音が感情とつながり、自分の曲に使えるものになっていきます。
まとめ
美しい和音を書けるようになるには、聴くことが欠かせません。
ただし、聴く量ではなく、違いを比べ、名前をつけ、場面と結びつけながら聴くことが大事です。
音楽を知らない人は協和音と不協和音の違いを感じ取れても、どちらが美しいかまでは決めていないらしい、というアマゾンでの実験結果が、そのことを裏づけています。
そしてエンジン音の聴き分けも、まったく同じ仕組みで育ちます。
耳の良さとは、生まれつきの性能ではなく、音に意味を結びつけてきた回数のことなのかもしれません。
