作曲家はどう稼いだ?バッハ・ハイドン・ベートーヴェンの働き方で読む音楽史

音楽史の本を開くと、たいていは「様式」の話から始まります。

バロックから古典派へ、古典派からロマン派へ、対位法がどうの、ソナタ形式がどうの、という具合です。

もちろんそれは正しい説明なのですが、正直なところ、あの整理の仕方で音楽史が腹に落ちたという人は、そう多くない気がします。

そこで、まったく別の角度から眺めてみたいと思います。

彼らが何で食べていたか、という角度です。

雇用契約書、収入の記録、突然の解雇、他家からのオファー、報酬の交渉、そして通貨の切り下げ。

こうして並べると身も蓋もないようですが、この視点から史料を読んでいくと、なぜバッハの音楽とベートーヴェンの音楽があれほど違うのかについて、教科書とは違うかたちの手触りが見えてきます。

様式の変化には、楽器の発達や出版技術、演奏会という制度の成立、聴衆層の広がり、思想や美学の変化、都市化、政治と宗教の動きなど、実に多くの要因が絡み合っていますが、その中で 働き方の変化もまた、音楽を変えていった大きな要因のひとつ でした。

この記事では、その一本の糸だけを引っぱってみます。

先に申し上げておくと、この物語は「不自由な使用人から自由な芸術家へ」という美しい直線ではありません。最後には、ヨーロッパ最大のスターがもう一度「就職」します。

前史:作曲家はもともと「音楽職人」だった

バッハを「教会の職員」と呼ぶ前に、もう一段さかのぼっておく必要があります。

バッハ以前のドイツにおいて、音楽家という職業は芸術というより手工業に近いものでした。

ドイツの町には「シュタットプファイファー(町の楽師)」という制度があり、彼らは市が雇う公式の音楽家でありながら、驚くべきことにギルドを形成していました。

親方がいて徒弟がいて、技術の多くは徒弟修業と口伝によって受け継がれていきました。

ギルドの内側は基本的に秘密とされていたため、彼ら向けの体系立った教則書というものはほとんど残っていません。

待遇はなかなか手厚いものでした。

ライプツィヒのシュタットプファイファーは週給に加えて臨時収入と衣服が支給され、1717年までは免税で、しかも「シュタットプファイファー小路」に住居まで用意されていたと記録されています。

さらに重要なのは、結婚式や祝宴、公式行事での演奏を独占する権利を持っていたことで、酒場で弾くような無資格の楽師(ビアフィードラー)に対しては、ギルドが総出で排除にかかりました。

トランペット、コルネット、トロンボーン、ホルン、ショーム、ドゥルツィアン、フルート、オーボエ、それに弦楽器まで一通り扱えることが求められたというのですから、専門職というより多能工です。

ここで思い出していただきたいのが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの父ヨハン・アンブロジウスの職業で、彼はアイゼナハの町楽師でした。

つまりバッハ家は、音楽家の一族であると同時に、パン屋や鍛冶屋と同じように家業を継ぐ職人の家でもあったということになります。

バッハが生涯にわたって、注文どおりの実用音楽を、しかも締切に間に合わせて驚異的な量産を続けたことの背景には、この職人の血が確実に流れているように思えてなりません。

彼にとって作曲とは、才能の発露である以前に納品でした。

バッハ:固定給は、総収入のおよそ7分の1

さて、そのバッハ本人です。

「教会の職員」という説明そのものは間違いではないのですが、給与の中身を覗いてみると、話はもう少し生々しくなります。

1723年からライプツィヒの聖トーマス教会カントルを務めた彼の固定給は、年に約100ターラーでした。

内訳は現金87ターラー12グロッシェンに、トリニティ祭に支給される「薪と灯り代」13ターラー3グロッシェンで、これに穀物16シェッフェルと薪が現物で加わります。

給料の一部が麦と薪で支払われるというだけでも十分に18世紀らしいのですが、注目すべきはその金額のほうです。

バッハ自身が1730年に旧友エルトマンへ宛てた手紙の中で、「私の今の職は700ターラーほどになります」と書き残しています。

この700という数字は本人が挙げた概算であって、内訳を史料から完全に再現できているわけではないのですが、それを踏まえたうえでも、保証されていた固定給は総収入のおよそ7分の1にすぎなかったという関係は動きません。

残りはどこから来たのか。

研究者による推計は粗いものですが、基金や遺贈からの収入がおよそ50ターラー、教会関連の演奏・楽器管理などが50〜100ターラー、そして最大の柱として結婚式と葬儀の謝礼が400〜500ターラーという構成が示されています。

カントルは葬儀1件につき6ペニヒから1ターラーを受け取り、ライプツィヒでは年間800件弱から1,400件台という幅で葬儀が記録されていましたから、この件数の振れ幅がそのままバッハの家計を揺さぶることになります。

そしてこのことを、バッハ自身が信じられないほど率直に書き残しています。

先ほどの1730年の手紙で700ターラーという数字を挙げたすぐあとに、彼はこう続けるのです。

例年より葬式が多ければ臨時収入もそれに応じて増えるけれども、空気が健康だと逆に減ってしまうもので、前の年は普通の葬儀が少なかったために100ターラー以上を失った、と。

町の人が健康だと、音楽の父の家計が苦しくなる。

生涯に20人の子をもうけた男が、街の死亡率を気にしながら家計簿をつけていたわけです。

もっとも研究者のあいだでは、実際の葬儀件数の変動から見て、この100ターラーという損失額はいくらか話を盛っている可能性も指摘されています。

雇い主に近い相手ではなく旧友への私信ですから、多少の誇張が混じっていたとしても不思議ではありません。

固定給はあるにはあるけれど、暮らしを支えていたのはその何倍もの変動収入だった、というこの構造は、バッハの音楽にある尋常でない密度と勤勉さを考えるうえで、意外と無視できない事実ではないかと思います。

天からの啓示と、家族を養う実務が、あの人の中では地続きだったのでしょう。

ハイドン:契約書には「白粉と髪型」の指定まであった

バッハの次の世代にあたるハイドンは、貴族に仕えました。

ここまでは音楽史の教科書どおりなのですが、その雇用契約書の現物を読むと、印象がかなり変わってきます。

1761年にエステルハージ侯爵家と交わした契約には、たとえば次のような条項が並んでいました。

  • 第2条 部下に粗暴な態度を取ってはならない。演奏時は制服を着用し、白い靴下と白い麻布を身につけ、白粉をつけ、髪を後ろで束ねるか鬘を着用して、身なりを統一すること
  • 第4条 侯爵が命じた音楽を作曲すること。侯爵の承認なく、他者のために作曲してはならない
  • 第5条 毎日昼食の前後に待機し、侯爵が演奏を望むかどうかを伺うこと
  • 第11条 年俸400フローリンを年4回に分けて支給する
  • 第12条 職員用の食卓で食事を取るか、その代わりに1日あたり半グルデンを支給する
  • 第13条 契約は最低3年間有効。辞職を望む場合は6か月前に申し出ること

第4条は、現代の言葉でいえば専属義務、あるいは副業の全面禁止にあたるもので、その効き方はかなり強いものでした。

競合他社での仕事を禁じるといった限定的なものではなく、侯爵の許可なく他人のために書くこと自体が封じられていたのです。

作品を外部のために書くことも、外へ流通させることも、侯爵側が統制していたのです。

そこへ第2条の身なり規定と第5条の毎日の待機が重なりますから、ハイドンは芸術家である前に、制服を着た住み込みの上級使用人だったと言うほかありません。

第12条がわざわざ「職員用の食卓で食べてよい」と定めているあたりに、彼の身分がはっきり表れています。

ところが1779年、契約が改定され、この独占条項が外れます。

ハイドンは他者のために作曲し、出版社に楽譜を売ることを許されるようになりました。

もっとも、この改定が彼を無名から有名にしたわけではありません。

ハイドンの作品はそれ以前から、正規のものも海賊版も含めて国外へ流れ出しており、名声はすでに高まりつつありました。

1779年の契約改定が果たしたのは、その高まりつつあった評判を、彼自身の収入へ本格的に結びつけられるようにしたことです。

楽譜はウィーンからパリへ、ロンドンへと正式に渡り、彼はヨーロッパ各地から作曲の依頼を受ける存在になっていきます。

そしてハイドンの本当のすごさは、その後にありました。

1790年にニコラウス侯が没し、後継のアントン侯が経費削減のため楽団をほぼ解散したとき、ハイドンはすでに58歳。

手元に残ったのは名目上の職と年俸400フローリン、それに前侯からの年金1,000フローリンという、事実上の定年退職でした。

彼はそこからロンドンへ渡ります。

2度の渡英で得た純益は15,000フローリンにのぼり、1809年に亡くなったときの遺産は55,713フローリンと記録されています。

1793年に購入した自宅が1,370フローリンだったことを思えば、家にしておよそ40軒分。

30年近く制服を着て侯爵家に仕えた男が、還暦近くになって独立し、生涯で最大の稼ぎを叩き出したことになります。

制度の話:音楽で稼ぐための「仕組み」そのものが整いつつあった

ここで少し寄り道をさせてください。

作曲家個人の話ばかり追っていると見落としがちなのですが、彼らが働き方を変えられた背景には、そもそも新しい稼ぎ方の土台が整いつつあったという事情があります。

ひとつは、有料の公開演奏会です。

1672年12月30日、ロンドンのジョン・バニスターという音楽家が自宅で演奏会を開き、入場料として1シリングを取りました。

貴族に招かれて演奏するのでもなく、教会で奉仕するのでもなく、不特定多数から木戸銭を集める。

古い音楽辞典でも「定期的に料金を払う聴衆を入れたロンドン最初の演奏会と思われる」と記されており、有料公開演奏会というビジネスモデルの先駆けとして位置づけられています。

もちろんこれ一夜ですべてが変わったわけではなく、この形式が定着して興行として成立するまでには、さらに数十年が必要でした。

もうひとつが、楽譜の権利です。

1710年のアン法はイギリスで世界初の近代的著作権法とされますが、そこに音楽が含まれるかどうかは長らく曖昧なままでした。

これに一応の決着をつけたのが、1777年のバッハ対ロングマン事件です。

原告はヨハン・クリスティアン・バッハ、あの大バッハの末子で、ロンドンで活躍していた作曲家でした。

彼は仲間のアーベルとともに、無断で楽譜を印刷した出版業者ロングマンを訴え、マンスフィールド卿は、アン法にいう「書物およびその他の著作」には印刷された楽譜も含まれるという判断を下します。

ただし、これで作曲家がただちに印税生活に入ったわけではありません。

当時は作品を出版社へ一括で売り切り、一回限りの報酬を受け取る形が広く行われていましたし、著作権をめぐる論点がその後すぐに整理されたわけでもありません。

それでも、演奏の場に立たなくても、楽譜そのものを商品として収益化できる制度的な土台が整い始めたという意味で、この判決の重みは相当なものです。

大バッハが街の葬儀の件数によって年収を上下させていた、そのわずか一世代あとに、彼の息子はロンドンの法廷で「楽譜は保護される著作である」と認めさせていた。

父と子のあいだに横たわるこの断層に、私はこの記事を書きながら一番驚かされました。

モーツァルト:「独立の失敗者」という通説は、たぶん半分ほど間違っています

さて、モーツァルトです。彼はふつう「宮廷を飛び出したものの独立に失敗し、貧困のうちに死んだ先駆者」として語られます。

ロマンチックですし、映画にもしやすい。ただ、近年の研究が描く姿は、これとかなり違っています。

始まりは劇的でした。

1781年、ザルツブルクの大司教コロレドと衝突した彼は職を辞し、大司教の家令アルコ伯爵に文字どおり尻を蹴られて部屋から追い出されます。

音楽史上もっとも有名な退職シーンでしょう。

問題はそのあとです。ウィーン時代の彼の収入については、最盛期に年4,000グルデン前後という推計がよく用いられます。

バウアーの研究のようにこれをかなり上回る数字を示すものもあり、逆に慎重な立場からは、断片的な史料しか残っていない以上、年収の正確な再構成には大きな不確実性があると指摘されています。

数字そのものが研究者によって二倍近く動くというのが実情なので、ここは幅をもって受け取るのが公平でしょう。

ちなみに彼が借りていた住居の家賃は年460フローリン、購入したフォルテピアノは約900フローリンでしたから、少なくとも一時期はかなり豊かな暮らしをしていたことになります。

そして見落とされがちなのですが、1787年12月、モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世から宮廷室内楽作曲家に任命されています。

年俸800フローリン、職務は宮廷舞踏会用の舞曲を書くことだけで、これはグルックの後任にあたるポストでした。

つまり彼は、完全なフリーランスではありませんでした。

予約演奏会、レッスン、楽譜出版、オペラの成功報酬という自営の収入に、宮廷からの固定給800フローリンを組み合わせたハイブリッド型の働き方をしていたことになります。

「独立に失敗した人」というより、「複数の収入源を組み合わせる働き方を、きわめて鮮明なかたちで体現した人」と呼ぶほうが、実態に近いのではないでしょうか。

では、なぜ彼は借金に苦しんだのか。

ここは慎重に書く必要があります。

というのも、収入が高いまま資金繰りだけが破綻した、という単純な話ではないからです。

1788年から90年にかけては、オーストリア=トルコ戦争にともなう景気の悪化と貴族層の支出減が、大きな逆風になりました。

顧客層がほぼ全員同じ社会階層に属していたため、その階層の不況をまともに受けてしまったわけです。

実際、史料から確認できる1789年と1790年の収入は、それぞれ1,500グルデン、1,385グルデンと、最盛期からは大きく落ち込んでいます。

ただし、彼自身の予約演奏会はそれ以前の1786年ごろからすでに勢いを失っていましたから、収入減のすべてを戦争のせいにすることはできません。

時代の逆風と、彼個人の集客力の陰りが、たまたま同じ時期に重なったと見るのが公平でしょう。

一方で、1788年6月にプフベルクへ宛てた手紙は、資金繰りの問題も同時に存在していたことをはっきり示しています。

彼はこの一通の中で「1年か2年の期限で1,000から2,000グルデンを」と申し込み、それが難しければ「せめて数百グルデンを明日までに」と書き添えているのです。

長期の借入と翌日の現金を同じ手紙で頼む人の家計が、健全であるはずがありません。

つまり彼が直面していたのは、収入の落ち込みと資金繰りの悪化が同時に来たという事態でした。

そして1790年から91年にかけて、彼の財政は回復に向かい始めていました。

死ななければ、話はまったく違っていたはずです。

この「あと少しだった」感じが、モーツァルトという人の切なさの正体なのかもしれません。

ベートーヴェン:他家のオファーを手に、条件を勝ち取った男

ベートーヴェンは「交渉でフリーになった人」と言われます。

これは正確なのですが、その交渉の中身は、想像以上に現代的で、そして生々しいものでした。

1808年、彼のもとにウェストファリア王ジェローム・ボナパルト──ナポレオンの弟です──から宮廷楽長就任のオファーが届きます。

年俸は600ドゥカーテン、フローリンに直しておよそ2,700にあたります。これとは別に、赴任のための旅費として150ドゥカーテンが支給されることになっており、両方を合わせるとおよそ3,400フローリン相当だったとされています。

職務は王のために時折演奏し、いくつか演奏会を指揮する程度で、宮廷楽団は自由に使え、旅行も自由という内容でした。

当時の宮廷音楽家の年俸が300〜400フローリン程度だったことと比べれば、破格という言葉ですら足りません。

ベートーヴェンは1809年1月7日、このオファーを受ける意向をウィーン側に伝えます。

ここからの展開が見事でした。

彼が受ける気でいるという報せが広まると、慌てたのはウィーンの貴族たちです。

ルドルフ大公、ロプコヴィツ侯、キンスキー侯の3人が連合し、1809年3月1日、年額4,000フローリンの年金契約を提示しました。内訳はルドルフ大公1,500、キンスキー侯1,800、ロプコヴィツ侯700フローリンです。

条件はただひとつ、ウィーンまたはオーストリア領内に居住すること。

作曲の義務も、演奏の義務も、待機の義務もありません。

ハイドンの契約書の第5条「毎日昼食前後に待機せよ」から、わずか半世紀ほどで、「何もしなくていいから、ここにいてくれ」という契約が成立したことになります。

他家のオファーをテーブルに置いて交渉に臨み、より良い条件を引き出して現職に留まる。転職の交渉をした経験のある方なら、この構図に既視感を覚えるのではないでしょうか。

ただし、この物語には残酷な後日談があります。

契約された4,000フローリンは「銀行券(バンコツェッテル)」建てでした。ところがナポレオン戦争によってオーストリアの財政は崩壊していきます。

契約時の1809年3月に銀貨換算で1,620フローリンの価値があったこの金額は、1810年8月には890フローリン、同年12月にはわずか416フローリンにまで下落しました。

そして1811年2月20日、政府は財政特許令、いわゆる国家破産を発し、銀行券の価値を額面の5分の1に切り下げます。

さらに追い打ちがかかりました。

1812年11月2日、支払額が最大だったキンスキー侯が落馬事故で急死したのです。

相続の手続きは滞り、ベートーヴェンは支払いを求めて訴訟を起こす羽目になりました。

判決で認められたのは年1,200フローリン(ウィーン通貨)で、しかも600フローリンずつの分割払い、受領のたびに本人が生存している旨の証明書を添えて領収書を出すことまで求められています。

自由と引き換えに得た年金が、通貨危機と、スポンサーの落馬という個人的な事故によって崩れていく。ベートーヴェンが晩年、出版社と一曲ごとに激しく値段を交渉し、ときに複数の出版社を天秤にかけるようなことまでしたのは、この経験と無関係ではないでしょう。

耳が聞こえなくなった彼にとって演奏収入は絶たれ、出版が最大の収入源になっていたのですから、なおさらです。

リスト:作曲家が「興行主」になり、そして最後にまた「就職」した

そして、この流れの到達点がフランツ・リストです。

1840年6月9日、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズ。彼はここで「リストのピアノフォルテ・リサイタル(Liszt’s Pianoforte Recitals)」と銘打った演奏会を開きました。

それまで「リサイタル」といえば朗読会を指す言葉であり、音楽の演奏会にこの語が使われたのは、これが最初とされています。

念のため補足しておくと、一人きりで舞台を務める演奏会そのものを、彼がこの日に発明したわけではありません

リスト自身が「音楽的独白」と呼んだ単独演奏会は、前年の1839年にイタリアですでに行われています。

1840年のロンドンが画期的だったのは、その形式に「リサイタル」という名前を与え、興行として掲げてみせたことのほうでした。名前がついた瞬間に、それは商品になります。

彼が舞台の上でやったことは、今日の常識そのものです。

ピアノを横向きに置いて音の抜けと横顔の見え方を両立させ、楽譜を見ずに暗譜で弾き、曲間に客席へ語りかけ、最初から最後まで一人で務める。

当時の演奏会は複数の演奏家が入れ替わる寄せ集め形式が普通でしたから、これは常識破りでした。

そして商売として見れば、出演者が一人であるということは、売上を分ける相手がいないということでもあります。

彼は自分自身をコンテンツにし、名前をブランドにしました。

ハイネが1844年に「リストマニア」という言葉を作ったのは、この現象を一種の病理として観察したからです。

もっとも、この巡業を支えた条件については、少し丁寧に見ておく必要があります。

興行を仕切るマネージャーがつき、エラールをはじめとするピアノメーカーが楽器を提供したことは確かですが、しばしば語られる「鉄道が長距離巡業を可能にした」という説明は、この時期に関してはやや先走りです。

1839年から1847年までの大巡業において、鉄道も次第に使えるようにはなっていったものの、移動のかなりの部分は依然として馬車によるものでした。ヨーロッパ中を駆け回って1,000回を超える演奏を行ったという事実の裏には、悪路を延々と揺られ続けた8年間があります。

ケルン大聖堂の建設やハンブルク大火の被災者へ多額の寄付をしたことまで含めて、その振る舞いは驚くほど現代的でありながら、身体の使い方だけは徹底的に19世紀でした。

ところが──ここが私の一番好きなところなのですが──リストは1847年9月、35歳で有料演奏会から引退します。

絶頂のまま、自分の意思で降りたのです。

そして翌1848年、彼はワイマールへ居を移し、宮廷楽長の職に本格的に就きます。

もっとも、この肩書き自体はまったく新しいものではありませんでした。

巡業の絶頂にあった1842年の時点で、彼はすでに名誉職に近いかたちでワイマールの宮廷楽長に任命されており、ときおり演奏に訪れてはいたのです。

1848年に起きたのは、名ばかりだったその職に、腰を据えて中身を入れるという選択でした。

ヨーロッパ中を熱狂させた興行主が、宮廷の役職に腰を落ち着ける。

しかもそこで彼は自分の大作を書き、若い音楽家を育て、1869年からは17年にわたってマスタークラスを開き続けました。

ハイドンが制服を着て仕えた宮廷と、リストが自ら選び取った宮廷は、名前は同じでも中身がまるで違います。

仕えるために就いた職なのか、やりたいことをやるために選んだ職なのか。この差こそが、音楽史の一世紀ほどのあいだに生まれたものでした。

雇用形態の変化を、一枚の表にしてみる

ここまでの流れを、現代の働き方の言葉に置き換えて整理してみます。

あくまで理解のための補助線であって、当時の制度がそのまま現代の雇用区分に対応するわけではない点は、お含みおきください。

人物 実質的な立場 収入の中心 現代でいうと
バッハの父アンブロジウス ギルド職人・市の雇用 週給+独占的な冠婚葬祭の仕事 家業を継ぐ資格職
J.S.バッハ 教会・市の職員 固定給約100ターラー+変動収入約600ターラー 固定給の低い成果報酬型
ハイドン(1761年〜) 住み込み使用人(外部への作曲を禁止) 年俸400フローリン+食事の現物支給 副業全面禁止の専属契約(最低3年)
ハイドン(1779年〜) 使用人だが外部の仕事が可能に 年俸+楽譜出版・海外からの依頼 副業解禁後の会社員
ハイドン(1790年〜) 年金生活者+自営 年金1,000フローリン+渡英で純益15,000 定年後に独立して大成功
モーツァルト 自営+宮廷の固定給800フローリン 予約演奏会・レッスン・出版・オペラ 業務委託と顧問契約の併用
ベートーヴェン 義務なしの年金受給者 年金4,000フローリン+出版報酬 スポンサー契約つきの独立
リスト(1839〜47年) 興行主・自己ブランド チケット収入 ツアーで稼ぐスターとその運営
リスト(1848年〜) 宮廷楽長 宮廷からの報酬 稼いだあとに選んだ仕事

こうして並べてみると、音楽史がずいぶん見通しよくなる気がしませんか。

バロック音楽が実用的で大量に書かれた背景の一つには、教会や宮廷への継続的な「納品」という仕事の形がありましたし、古典派の音楽に明快な「型」があることには、雇い主や聴衆の期待に応え続ける必要があったという事情も関わっています。

ロマン派の音楽が長大で個人的になり、ときに演奏至難になっていくことについても、それが売り物であり自己表現であり、不特定多数の聴衆に向けた商品になっていったという変化を抜きには語れません。

もちろん、これらはどれも唯一の原因ではありません。

ただ、様式の変化を雇用形態の変化から読み解ける部分は、思っていたよりずっと大きいというのが、この記事を書きながら私が受けた実感です。

それでも、これは「解放の物語」ではない

最後に、どうしても書いておきたいことがあります。

この歴史は「不自由な使用人が自由な芸術家へと解放されていく物語」として語られがちです。

実際、そう語ると気持ちがいい。

しかし史料を並べていくと、どうもそう単純ではないことが見えてきます。

ハイドンは制服を着て30年近く仕えたおかげで、毎日オーケストラを実験台にすることができ、あの膨大な交響曲群を書けました。

彼自身が、世間から隔絶されていたために独創的にならざるを得なかった、という趣旨のことを述べています。

拘束が創造の条件として働くこともあった、ということです。

一方、条件を勝ち取ったベートーヴェンの年金は通貨危機で目減りし、スポンサーの落馬で止まり、訴訟にまで発展しました。

複数の収入源を組み合わせたモーツァルトは、豊かな時期を経験しながら、市場の冷え込みと資金繰りの悪化に同時に襲われました。

そしてヨーロッパ最大のスターだったリストは、35歳で興行から降りて宮廷に戻っています。

安定を手放せば自由が手に入り、自由を得れば不安定がついてくる。

手にした自由の分だけ、リスクを自分で引き受けなければならなくなる。

300年前の音楽家たちが向き合っていたのは、独立するか勤めるかで悩む現代の私たちと、驚くほど同じ問題でした。

バッハが街の葬儀の数を気にかけ、ハイドンが契約更新のたびに条項を確かめ、ベートーヴェンが他家のオファーを手に交渉へ臨み、リストが引き際を自分で選ぶ。

彼らの音楽の裏側には、そういう極めて散文的な計算が、確かに存在していたのです。

そしてそれを知ったところで、《マタイ受難曲》や《第九》の偉大さが一ミリも損なわれないというのが、この話のいちばん面白いところではないでしょうか。

むしろ逆だろうと思います。

家計と締切の心配をしながら、あれを書いたのですから。

また、当サイトではたくさんのクラシックコラムを書いています。気になったのはぜひチェックしてくださいね。

■主な参考資料・史料

本文で挙げた金額や契約条項は、以下の資料に基づいています。数字の推計には研究者によって幅があるため、断定を避けた箇所については本文中にその旨を記しました。

  • ハイドンとエステルハージ侯爵家の1761年雇用契約書(全文の日本語訳)
  • Bach Network, Understanding Bach 掲載論文(ライプツィヒ時代のバッハの給与および臨時収入の内訳)
  • J.S.バッハからゲオルク・エルトマンへの書簡(1730年10月28日付、ライプツィヒ)
  • Beethoven-Haus Bonn 特別展「Beethoven’s capital」(1809年の年金契約、通貨切り下げ、キンスキー侯の相続をめぐる訴訟)
  • ルドルフ大公・キンスキー侯・ロプコヴィツ侯とベートーヴェンの年金契約書(1809年3月1日付、Beethoven-Haus 所蔵)
  • Dexter Edge によるモーツァルトの収入に関する研究(1789年・1790年の確認可能な収入額)
  • David Wyn Jones によるハイドン研究(ロンドン滞在の純益および遺産額)
  • Bach v. Longman (1777), 2 Cowp. 623(マンスフィールド卿判決)
  • Grove Music Online、Oxford Music Online 各項目

なお、当時の通貨を現代の日本円へ換算することは、賃金水準・物価・所得階層のどれを基準にするかで結果が大きく変わるため、本記事では意図的に行っていません。