モーツァルト《レクイエム》─「自分の死を予感して書いた」はどこまで本当なのか

死の二か月前、モーツァルトは舞台袖に回って、いたずらをしています。

1791年10月8日から9日にかけて、湯治先のバーデンにいる妻コンスタンツェへ宛てた手紙。

そこには《魔笛》の上演中、パパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らす場面で、彼が舞台脇で本物の鍵盤を弾いてしまった顛末が、得意げに書き綴られています。

舞台上のシカネーダーは驚いて動きを止め、袖のほうを見て、思わず「黙れ」と口走った。

モーツァルトはそれを見て笑い、「この悪ふざけのおかげで、あの楽器を彼自身が弾いていないことに、多くの人が初めて気づいたはずだ」と書いています。

同じ手紙には、チョウザメと去勢鶏を食べたこと、明日は義母を連れて観に行くつもりだということ、冬用のズボン下が見当たらないから探しておいてくれ、といった話までが並びます。

これが、「黒衣の使者に自分の葬送曲を依頼され、死の影に怯えながら筆を進めていた作曲家」の、実際の筆跡です。

正直に言うと、私はこの手紙を読み直すたびに少し落ち着かない気持ちになります。

伝説のほうがはるかに美しいからです。

ところが、この件を調べていくと、話はそう単純に「伝説 対 史実」で割り切れないことがわかってきます。

あの物語は、後世がゆっくり作り上げたものではありませんでした。モーツァルトの死から33日後には、もう新聞に載っていたのです。

そもそも「伝説」はどんな形をしているのか

まず、一般に流布している物語のほうを確認しておきましょう。

おおむね、こういう筋書きです。

1791年の秋、灰色(あるいは黒)の服を着た見知らぬ男がモーツァルトの家を訪れ、名を明かさぬまま鎮魂ミサ曲を依頼する。

前金だけを置いて男は去る。作曲を進めるうちにモーツァルトは、この曲は自分自身の葬送のためのものだと確信するようになる。

使者は催促に現れ続け、彼は衰弱し、《ラクリモサ》の途中で筆が止まったまま息を引き取る──。

映画『アマデウス』(1984年)は、この使者をサリエリに置き換えることで物語をさらに研ぎ澄ませました。

あの黒い仮面の造形力は本当に見事で、以後の一般的なイメージはほぼあの映画で固定されたと言っていいと思います。

問題は、この筋書きのどの部分が、いつ、誰の口から出てきたのかです。

 

「自分のためのレクイエム」という伝説は、1792年1月7日にはすでに現れていました

日本語の解説記事の多くは、この伝説を「19世紀にかけて膨らんでいった後世の脚色」として扱います。

よく名前が挙がるのは、1798年にロホリッツが『音楽一般新聞』に載せた逸話集や、1828年のニッセン伝です。

ところが、それより六年早い記録があります。

1792年1月7日、『ザルツブルガー・インテリゲンツブラット』第1号の付録13〜14ページ。「1) モーツァルトのこと」という見出しの、短い読み物です。

モーツァルトが死んだのは1791年12月5日ですから、わずか33日後。

この記事の存在は、1971年にエルンスト・ヒンターマイアーが『オーストリア音楽雑誌』で紹介するまで、ほとんど知られていませんでした。

内容を要約すると、こうです。

死の数か月前、モーツァルトのもとに署名のない手紙が届き、レクイエムを書いてほしい、報酬は望むだけ出すと言ってきました。

気が進まなかったモーツァルトは「法外な額を吹っかければ諦めるだろう」と考える。翌日、返事を取りに一人の召使いが来ました。

モーツァルトは、60ドゥカーテンでなければ書けない、しかも2、3か月は取りかかれない、と書いて渡します。

召使いはまた来て、その場で30ドゥカーテンを置き、3か月後にまた伺う、ミサが仕上がっていれば残りの半額をすぐ払う、と告げた。

そして、この一文が続きます。

それでモーツァルトは書かねばならなくなったが、しばしば涙を浮かべながらそうしていた。そしていつもこう言っていた──「私は自分のためにレクイエムを書いているのではないかと恐れている」。

「自分のためのレクイエム」という、あの決定的なフレーズ。

それは1828年の遺族の回想でも、1798年の逸話集でもなく、死後一か月の地方紙にすでに印刷されていました。

しかしその最初の記事は、すでに二つの明らかな誤りを含んでいます

この最古の記事は、同時に検証可能な虚偽を含んでいます。

ひとつ、記事は「彼は死の数日前にそれを仕上げた」と書いています。

事実ではありません!

《レクイエム》は未完のまま残されました。

ふたつ、「彼の死が知られると召使いがまた来て、残りの30ドゥカーテンを持参し、レクイエムを要求せず、以来なんの問い合わせもない」。

これも事実ではありません。

依頼主はきちんと作品を受け取り、二年後に自分の名で演奏させています。

つまり最初期の記事は、モーツァルト本人の言葉としてこの発言を伝えている一方で、周辺の事実をすでに取り違えている。

まっさらな真実でも、まっさらな作り話でもない。生まれた瞬間から、両者は混ざっていたわけです。

ちなみにこの記事に「灰色の男」は出てきません。

来たのはただのBedienter、召使いです。

そして報酬は60ドゥカーテン、前金30。この数字も、後で見る他の史料とは食い違います。

伝説は後から色をつけられたのではなく、最初から少しずつピントがずれた状態で走り出した。

私はこの構図のほうが、単なる「後世の創作」よりずっと不気味だと思います。

 

依頼主は「あの世」ではなく、下オーストリアの28歳でした

では、実際の発注者は誰だったのでしょうか。

フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパッハ伯爵。ウィーン南方、シュトゥパッハ城の領主です。

彼の妻アンナが亡くなったのは1791年2月14日、享年20歳でした。

伯爵自身は1763年1月生まれですから、依頼の時点で28歳。

20歳の妻を亡くした28歳の男が、その追悼のために音楽を注文した──構図としては、これ以上ないほど普通の話です。

依頼が持ち込まれたのは、諸研究がおおむね一致するところで1791年の夏、7月ごろです。

伯爵の楽団にいた人物の証言によれば、妻の命日に毎年演奏する意図があったとされます。

ただし「1792年2月14日が契約上の確定納期だった」と断言できる文書があるわけではありません。

一周忌での演奏を念頭に置いた依頼だった、というあたりが史料的に安全な言い方でしょう。

報酬額は、実は史料ごとにばらばらです。

新モーツァルト全集の校訂報告は50ドゥカーテンとし、1838年に宮廷図書館が自筆譜を買い取った額と同じだったと記しています。

先ほどの1792年の新聞記事は60ドゥカーテンで、前金30ドゥカーテンです。

100ドゥカーテンとする古い証言もあります。

参考までに、モーツァルトが宮廷作曲家として受け取っていた年俸は800グルデンで、50ドゥカーテンはおよそ225グルデンに相当します。

単発の教会音楽一曲の対価としては、悪くない、けれども破格でもない、、、要するに、良い仕事です。

「灰色の使者」は誰だったのか──実は今も確定していません

ここは日本語の解説記事でしばしば断定的に書かれている箇所ですが、決着していません。

有力候補は二人います。

一人はフランツ・アントン・ライトゲープです。ヴァルゼック伯爵に仕えた人物で、ウィーン市長の息子だったとも、シュトットヴィーンにあった伯爵のセメント工場の管理人だったとも伝えられます。

もう一人は、伯爵の法務を扱っていたウィーンの弁護士ヨハン・ゾルチャンの事務所の書生です。

新モーツァルト全集は、この点について「決定的に解明できる見込みはほとんどない」と、はっきり匙を投げています。

貴族の代理人か、法律事務所の使い走りか。守秘義務のある取次ぎとしては、どちらもごく実務的な人選です。

そして先ほど見たとおり、最古の記事ではこの人物はただの「召使い」でした。

「灰色の服」という有名なディテールは、そこからさらに後の記述に由来します。

同時代の文書に「灰色の男が来た」と書かれたものはないので、あの色は、物語が育つ過程で着せられた衣装なのです。

匿名だった理由は、単純な「盗作」だけでは説明できません

では、なぜ伯爵は名を伏せたのか。ここに、この件でいちばん面白い証言があります。

ヴァルゼック伯爵は熱心なアマチュア音楽家で、シュトゥパッハ城で毎週火曜と木曜、三時間ほどの四重奏会を開いていました。

そして彼には妙な習癖がありました。高名な作曲家に匿名で作品を注文し、それを自分の筆跡で写譜し直して、作曲者名を伏せたまま客の前で演奏させるのです。客たちは「さて、これは誰の作品でしょう」と当てっこをする。

これを「他人の曲を自作と偽って発表していた盗作癖」と説明する記事は多いのですが、当事者の証言はもう少し可笑しな色をしています。

伯爵の楽団に加わっていたアントン・ヘルツォークという人物は、後年こう書き残しました――我々は皆、彼が自分たちをそんな間抜けだと思っていることを、面白がっていた、と。

つまり、周りは全部わかっていたのです。

わかったうえで、当てっこの遊びに付き合っていた。田舎の城館で二十代の当主が続けていた、

ちょっと痛々しくて、ちょっと愛おしい趣味の作法。それが、あの「匿名の依頼」の正体でした。

《レクイエム》も、基本的にはその流儀の延長で注文された作品だったと考えられます。

ただ今回だけは、注文先が死んでしまった。

その証言が読めるようになったのは、たった数十年前です

いま引いたアントン・ヘルツォークは、ウィーン・ノイシュタットの学校教師で、ヴァルゼック伯爵の楽団に加わっていた当事者です。

彼は1839年、『W・A・モーツァルトのレクイエムの真実にして詳細な歴史』と題した手記を書き上げました。事件から約47年後の回想です。

ところがこの手記、1839年2月8日付で検閲当局に出版を却下されています。

「帝国王立検閲官・不許可」の判が押されたまま、原稿は眠りました。

抄録がウィーンの新聞に載るのは1925年。

原稿が本格的に研究者の目に触れるようになるのは1964年で、オットー・エーリヒ・ドイチュが全文を紹介・刊行しました。

日本語の解説では「1964年に依頼主がヴァルゼック伯爵だと判明した」と書かれることが多いのですが、これはやや不正確です。

伯爵の名前自体は19世紀のうちに知られていました。1964年に手に入ったのは名前ではなく、「なぜ匿名だったのか」を当事者の口調で語る一次証言のほうです。

四重奏会の当てっこも、「我々は面白がっていた」という一言も、この年まで読めなかった。

なお、ヘルツォークの証言も全面的に信用されているわけではありません。

アニュス・デイの異稿をめぐる記述の混乱や、「ヴァルゼックはモーツァルトの弟子だった」という明らかな誇張が含まれることが指摘されています。

47年前の記憶とは、そういうものでしょう。

この種の資料研究の中心にあるのがザルツブルクのモーツァルテウム財団で、書簡や関連文書のデジタル公開と『新モーツァルト全集』の刊行を担っています。

一方で《レクイエム》の自筆譜そのものはウィーンのオーストリア国立図書館の所蔵(Cod. 17.561)です。この二つはよく混同されるので、書き添えておきます。

 

証言の初出を年表に並べてみると

  • 1791年12月5日 モーツァルト死去(午前0時55分ごろ、35歳)
  • 1791年12月10日 ウィーンのミヒャエル教会で追悼ミサ
  • 1792年1月7日 『ザルツブルガー・インテリゲンツブラット』に、匿名の手紙・召使い・前金・「自分のためのレクイエム」が出そろう
  • 1798年 ロホリッツが『音楽一般新聞』に「モーツァルトの逸話」を連載。ニーメチェクの伝記も同年
  • 1826年 宮廷音楽家シュタードラーが《レクイエム》の真作性を擁護する論考を発表
  • 1828年 ニッセン著『モーツァルト伝』刊行
  • 1856年 「臨終の床で口述した」という逸話が文献上に現れる

こう並べると、1792年と1798年のあいだの六年間の空白が目を引きます。

そして1798年以降の証言の系譜は、かなりの部分が一つの家庭を経由しています。

ニーメチェクの伝記は未亡人コンスタンツェとその妹ゾフィーからの聞き取りが土台ですし、1828年のニッセン伝の著者ゲオルク・ニコラウス・ニッセンは、コンスタンツェの再婚相手にほかなりません。

1792年の最初の記事にしても、情報源はコンスタンツェ周辺だった可能性が高いと見る研究者がいます。

一方で、明らかに信を置けないものもあります。

「灰色の服の使者に催促され、自分自身のためのレクイエムを書いている」と記した有名なダ・ポンテ宛書簡は、現在では偽作とみるのが有力です。

当時ダ・ポンテはイギリスにおり、ウィーンに現れた見知らぬ男の話を共有できる位置にいませんでした。

臨終の口述という、映画でもっとも印象的なあの場面に至っては、遡れる最古の言及が1856年。目撃者が全員この世を去ったあとです。

 

「1792」を書いたのは誰か──ここは決着しています

この事件には、長く「未決着」とされてきた有名な謎があります。ヴァルゼック伯爵に納品された楽譜の冒頭に、こう記されているのです。

di me W: A: Mozart mpr / 792

「私、W・A・モーツァルトの手による/792(=1792)年」。

1791年に死んだ人間の作品に、1792年の年記。長らく、モーツァルトが完成予定年を前もって書いたのだ、という解釈と、納品を成立させるための偽装だ、という解釈が並立してきました。

しかし、2007年刊行の『新モーツァルト全集』校訂報告は、この作者表記の筆跡を、フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーのものとして明確に分類しています。

同じ報告は、《ディエス・イレ》から《ルクス・エテルナ》までがジュスマイヤーの筆であることも整理しました。

つまり、あの一行を書いたのはモーツァルトではありません。

彼の死後、補筆を引き受けた弟子が、師の名で、師の死んだ翌年の年号を添えて署名した。

ここは現在の研究水準では、もはや両論併記の箇所ではないのです。

 

隠していたのは誰か──3つ、いや4つの隠しごと

この事件を「匿名の依頼」として語ると、隠しごとをしたのはヴァルゼック伯爵ひとりに見えます。

ところが史料を並べると、隠していた人はもっといます。

1人めは、伯爵です。

これはもう見たとおりで、しかも客には見抜かれていた、最も罪の軽い隠しごとです。

2人めは、ジュスマイヤーです。

モーツァルト自身の筆で完成形に近いところまで残されたのは、冒頭のイントロイトゥスとキリエ。

ただしキリエについては、声楽声部と低音・オルガンをモーツァルトが書き、弦と管、トランペットとティンパニは別人の手で補われていることが現在の校訂報告で確認されています。

以降は骨格が残るのみで、《ラクリモサ》に至ってはわずか8小節、「judicandus homo reus」の語で筆が絶えています。

コンスタンツェはまずヨーゼフ・アイブラーに補筆を頼み、彼は途中で断念して楽譜を返しました。

最終的に引き受けたジュスマイヤーは、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイを自分で書き、全体をモーツァルトの筆致に似せて仕上げ、あの「792」の署名を添えました。

3人めは、コンスタンツェです。

彼女は未完成であることを伏せて納品しなければならなかった。

並行して、契約上ヴァルゼック伯爵の独占物であるはずの作品を、他へも流しています。

新モーツァルト全集が「遅くともこの日までにはジュスマイヤーの補筆が完成していた」と判断する根拠にしているのが、1792年3月4日付の、完成した《レクイエム》の写譜をプロイセン公使ヤコビ=クレースト男爵へ引き渡した際の記録です。

伯爵の楽譜がまだ現地に届くか届かないかという時期に、写しはすでに外へ出ていたことになります。

そして4人めは、、、

これはコンスタンツェの企みですらありません。

先ほど触れたキリエの器楽声部を書いた「二人の未詳の筆者」について、校訂報告は制作時期を1791年12月10日より前と特定しています。

理由は明快で、モーツァルトの追悼ミサでこの曲を鳴らすためです。

つまり、《レクイエム》が世界で最初に響いたとき、そこにはもうモーツァルト以外の手が入っていた。

作曲者の葬送のために、名名前も残らない二人が、演奏に間に合わせるために弦や管、トランペット、ティンパニを書き足した。

私はこの事実を知ったとき、少しのあいだ言葉が出ませんでした。

整理すると、こうです。

匿名の依頼主は正体を隠し、補筆者は自分の筆を隠し、未亡人は作品が未完であることを隠し、そして名も知れぬ写譜者が、最初の一音を鳴らすために穴を埋めた。

伝説は嘘というより、この重なり合った沈黙の隙間で、輪郭を得ていったのだと思います。

 

伝説を捨てても、なお残るもの

ここまで書くと「なんだ、結局は事務的な話か」という読後感になりそうなので、公平のために逆側の事実も置いておきます。

ベルリンの国立図書館に、一枚のスケッチ紙があります。

そこには《レクス・トレメンダエ》の断片4小節とともに、ソプラノとアルトに「Amen」の歌詞を付した、ニ短調の四声フーガの主題が16小節書かれている。

しかもその主題は、《レクイエム》冒頭の主題を反行させた形をしています。

新モーツァルト全集の校訂報告は、これを「セクエンツィアを締めくくるために計画されながら実行されなかったアーメン・フーガの、書き起こされた冒頭である可能性が非常に高い」としています。

つまりモーツァルトは、《ラクリモサ》のあとにフーガを置いて、曲の入口と出口を同じ音型で閉じる構想を持っていた可能性が非常に高い。

もっとも、同じ報告は反対意見も併記しています。マンフレート・ヘルマン・シュミットは、自筆譜における《ラクリモサ》の旧丁付けが同曲に4ページしか見込んでいないことを指摘し、長大なフーガを入れる余地はそもそもない、モーツァルトはこの構想を破棄したか、別の用途で書いたのではないか、と論じました。

ジュスマイヤーはこのスケッチを使っていません。

ロバート・レヴィンが1991年8月、ヘルムート・リリング指揮でシュトゥットガルトに初演した補筆版(楽譜出版は1994年)は、この草稿からアーメン・フーガを実現させた試みです。

 

12月10日について、確かなことと、そうでないこと

確かなこと

1791年12月10日、ウィーンのミヒャエル教会でモーツァルトの追悼ミサが行われました。

この事実は動きません。

1991年、ヴァルター・ブラウナイスが同教会の文書館で「葬儀仕様書」を発見し、確定させたものです(『ジンゲンデ・キルヒェ』38巻1号に発表)。

新モーツァルト全集は、これを1830年ごろ以降で最も重要な史料発見と評しています。

そうでないこと

一方で、そこで《レクイエム》の一部が鳴ったかどうかは、区別して語る必要があります。

校訂報告はこう書いています──文書によって直接証明することはできないが、新聞報道、参加した音楽家の顔ぶれ、そして自筆譜そのものという補い合う諸状況から、この追悼ミサで《レクイエム》の一部が演奏されたことは明白である。

ただし、そこで使われた演奏用パート譜は残っておらず、実際に鳴った音楽の具体的な裏付けは最終的に欠けている、と。

演奏されたとすれば、まとまった形で仕上がっていたイントロイトゥスとキリエ以外にはありえない。

そしてそのキリエの管弦楽声部こそ、直前に二人の未詳の写譜者が書き足したものだった。

依頼主の意図とも、未亡人の思惑とも、伝説の脚色とも無関係に、そういう慌ただしい五日間が実際にあったわけです。

 

結局、モーツァルトは自分の死を予感していたのか

確証はありません。

少なくとも、モーツァルト自身の書簡など、本人による同時代の直接的な証拠は残っていません。

彼の筆跡が残る1791年秋の手紙は、驚くほど陽気です。

舞台袖のいたずら、食事の話、下着の在り処。

11月18日にフリーメイソンのカンタータを指揮した直後には、その反響に上機嫌だったと伝わります。床に就いたのは11月20日ごろで、そこから死までは二週間ほどしかありません。「死を予感しながら書き続けた数か月」を置くだけの時間的な余白が、そもそも足りないのです。

とはいえ──ここが正直むずかしいところで、私も書きながら何度か態度を決めかねました──「自分のためにレクイエムを書いているのではないか」という言葉そのものは、死後33日で活字になっています。

後世の創作と片づけるには早すぎる。同時に、その記事は他の箇所で明白に間違ってもいる。近くにいた誰かが本当にそう聞いたのか、悲しみのなかで話が整えられたのか、判断する材料が私たちにはありません。

確実に言えるのは、彼が報酬を伴う依頼仕事としてこの曲を書いていたこと。

前金を受け取り、報酬額を取り決め、そして完成させる前に亡くなったことです。

私はこの結末のほうが、はるかにこたえます。

予感して書いたのなら、それは物語です。予感せずに、ごく普通に仕事として書いていたのに途中で死んだのなら、それはただの事故で、慰めがありません。

35歳の死は、あまりにも意味がない。だからたぶん、あの召使いはやがて灰色の服を着せられ、使者に仕立てられた。

ロホリッツも、ニーメチェクも、ニッセンも、『アマデウス』を書いたピーター・シェーファーも、そしてこの曲を聴きに行く私たちも、その一点では同じことをしています。

《ラクリモサ》の8小節目で音楽が途切れるとき、あの空白に何を聴くか。二百年以上、人はそこを埋め続けてきました。

史実はその空白を埋めてくれません。ただ、埋めたくなる理由のほうは、わりときれいに説明してくれます。

それで十分ではないか、と最近は思っています。

 

要点のまとめ

通説 現在わかっていること
謎の男が突然現れ、正体不明のまま去った 依頼主はヴァルゼック=シュトゥパッハ伯爵。取次ぎはライトゲープか弁護士事務所の書生(未確定)。最古の記事では単に「一人の召使い」
あの世からの使者だった 1791年2月14日に20歳で死去した妻アンナの追悼のための注文。一周忌での演奏が念頭にあったとみられる
伝説は19世紀に少しずつ作られた 「自分のためのレクイエム」という言葉は死後33日の1792年1月7日、ザルツブルクの新聞にすでに登場
その最初の記事が伝説の証拠になる 同じ記事が「死の数日前に完成させた」「依頼主は二度と現れなかった」という明白な誤りも含む
報酬は◯◯ドゥカーテンだった 新モーツァルト全集は50、1792年の新聞は60(前金30)、古い証言では100。一致していない
「1792」の年記は誰が書いたか未決着 2007年の新モーツァルト全集校訂報告が、この作者表記をジュスマイヤーの筆跡と分類
モーツァルトが完成させたのはイントロイトゥスとキリエ キリエの弦・管・トランペット・ティンパニは別人の補筆。しかも1791年12月10日以前に書かれている
死の床で口述して完成を託した この逸話の文献初出は1856年
ダ・ポンテ宛の手紙に書き残している 当該書簡は偽作説が有力
1964年に依頼主が判明した 名前は19世紀から既知。1964年に発見されたのはヘルツォークの一次証言の原本

主な参考資料

  • 『ザルツブルガー・インテリゲンツブラット』1792年1月7日号 付録 pp.13–14「1) Von Mozart」(バイエルン州立図書館デジタルコレクション所蔵)
  • Ernst Hintermaier, “Eine frühe Requiem-Anekdote in einer Salzburger Zeitung”, Österreichische Musikzeitschrift 26 (1971), pp.436–437
  • 『新モーツァルト全集』校訂報告 NMA I/1/Abt.2(Dietrich Berke/Christoph Wolff 編、2007年)
  • 『新モーツァルト全集』第13巻 序文(英訳版、モーツァルテウム財団デジタル・モーツァルト・エディション)
  • Anton Herzog, Wahre und ausführliche Geschichte des Requiem von W. A. Mozart(1839年執筆、1964年 O. E. ドイチュにより原本発見)
  • Walther Brauneis, “Exequien für Mozart”, Singende Kirche 38/1 (1991), pp.8–11
  • Manfred Hermann Schmid, “Das »Lacrimosa« in Mozarts Requiem”, Mozart Studien 7 (1997), pp.115–141
  • モーツァルト書簡(1791年10月8–9日、コンスタンツェ宛)モーツァルテウム財団デジタル・モーツァルト・エディション
  • 自筆譜:オーストリア国立図書館 Cod. 17.561/スケッチ:ベルリン国立図書館 Mus. ms. autogr. W. A. Mozart 626