今年も年末が近づいてきました。
紅白歌合戦と並ぶ年末の風物詩といえば、そう「日本レコード大賞」、通称レコ大ですよね。
ところでこの賞、いったい何を基準に選ばれているのか、きちんと説明できる人は意外と少ないんじゃないでしょうか。
日本でいちばん有名な音楽賞なのだから、いちばん「音楽的」な賞に違いない――多くの人がそんなイメージを持っているはずです。
私は作曲家として音楽の世界で仕事をしてきましたが、結論から言うと、このイメージは半分だけ正解です。
そして残りの半分にこそ、この賞の面白さと日本の音楽シーンの正体が詰まっています。
公式の規定と60年分の歴史をたどりながら、その正体を一緒に見ていきましょう。
日本レコード大賞は、何を選ぶ賞なのか
公式の規定には「人気」が堂々と書いてある
まず一次情報にあたってみます。
主催する公益社団法人日本作曲家協会は、レコード大賞を「作詩・作曲・編曲を通じて芸術性・独創性・企画性などが顕著な作品」や「優れた歌唱によって活かされた作品」のうち、「大衆の強い支持」を得たものを顕彰する賞だと説明しています。
注目してほしいのは最後の部分です。
大衆の強い支持、つまり世の中にどれだけ受け入れられたかが、正式な基準として堂々と書かれているんです。
しかも「企画性」という言葉まで並んでいます。
つまり曲の出来だけではなく、作品がどんな発想で企画され、どれだけ世の中に受け入れられたかも評価に関わるわけです。
だから「レコ大は音楽性だけで選ぶ賞ではない」というのは、陰謀論でも皮肉でもなく、公式自身が最初から宣言していることなんですね。
純粋に作品の芸術性だけを競う賞だと思って見ていると毎年モヤモヤするのは、そもそもそういうルールの賞ではないからです。
選考の中心にいるのは、音楽家ではなく新聞記者
では、その基準で審査しているのは誰なのか。ここがこの賞のいちばん不思議なところで、答えは「新聞記者」です。
レコード大賞の審査委員会は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者を中心に、音楽評論家やTBS系列局の関係者などで構成され、近年は20人前後と報じられています。
主催しているのは「作曲家」の協会なのに、審査の中心にいるのは、作曲家でも編曲家でもなく新聞記者たち。
私はこの構図を初めて知ったとき、思わず資料を二度見しました。
誤解のないように言っておくと、記者が選ぶこと自体が悪いわけではありません。
報道のプロは「世の中がどう動いたか」を見る専門家ですから、大衆の支持を測る審査員としてはむしろ適任です。
ただそれは、音楽の中身を測る仕組みとはまったくの別物だ、という話なんです。
グラミー賞は「同業者が同業者を選ぶ」
比較するとわかりやすいのが、アメリカのグラミー賞です。
グラミーの受賞者を決めるのは、レコーディング・アカデミーの投票会員、つまり歌手や作曲家、プロデューサー、録音エンジニアといった音楽制作の現役プロたちで、主催者自身が「同業者が同業者を称える賞」だと説明しています。
一方のレコ大は、1959年にこのグラミー賞を手本として生まれたといわれています。
それなのに、肝心の「音楽家が選ぶ」という心臓部だけは輸入されませんでした。
同じ「国を代表する音楽賞」でも、片方は作り手の投票で決まり、片方は記者の話し合いと投票で決まる。
この設計の違いが、半世紀以上たった今の、両者の評価の分かれ目になっています。
60年の歴史は、音楽の外側のドラマでできている
視聴率50.8%。テレビと二人三脚で育った賞
レコード大賞を国民的行事に押し上げたのは、テレビの力でした。
1969年の第11回からTBSが大晦日のゴールデンタイムで生放送を始めると、初年度からいきなり視聴率30.9%を記録します(ビデオリサーチ調べ・関東地区、以下同じ)。
ピークは1977年です。沢田研二さんの「勝手にしやがれ」が大賞に輝いた第19回は、50.8%という驚異的な数字を叩き出しました。
関東地区では、テレビを持つ世帯の約半数に匹敵する数字です。
いまではちょっと想像できないほど、年末の日本中がこの賞に注目していた時代だったんです。
受賞歌手がパトカーの先導で紅白歌合戦の会場へ駆けつける、なんて伝説まで生まれた時代でした。
ところが平成に入ると数字は右肩下がりになり、2010年代半ば以降はおおむね13〜16%前後で推移しています。
賞の権威はテレビの熱と一緒に膨らみ、テレビの熱と一緒にしぼんでいった。
この連動こそ、レコ大が「音楽の賞」である前に「テレビの賞」だったことの何よりの証拠だと思うんです。
歴史に刻まれた「音楽以外の事件簿」
レコ大の歴史で語り継がれているのは、名曲よりもむしろ事件です。
しかもそのほとんどが、音楽の中身とは別の場所で起きています。
1989年:美空ひばりがWinkに敗れた夜
この年、闘病の末に亡くなった美空ひばりさんの「川の流れのように」が大賞確実と見られていました。
ところが蓋を開けると、大賞はWinkの「淋しい熱帯魚」。
この番狂わせは業界に衝撃を与えました。当時の賞レースでは審査員への接待が行われていたという関係者の証言も、のちに報じられています。
そして翌1990年からは、TBS系列局の審査員が26人から16人に削減されたと伝えられています。
審査の構造そのものが見直しを迫られた、象徴的な一夜です。
1994年:大賞受賞者がいない授賞式
Jポップが空前の盛り上がりを見せたこの年、大賞はMr.Childrenの「innocent world」でした。
オリコン年間1位のメガヒットですから、受賞自体は誰もが納得の結果です。
ところが当日、本人たちは会場にいませんでした。新曲のミュージックビデオを海外で撮影していて、授賞式を欠席したんです。
日本一の音楽賞よりも、次の作品づくり。
この選択は「レコ大の権威なんてその程度」という空気を世間に印象づけ、以降は賞レースと距離を置くアーティストや事務所が目立っていきます。
ちなみにミスチルは10年後の2004年に「Sign」で再び大賞に選ばれ、今度はきちんと出席しました。
2016年:一枚の請求書
そして極めつけが、週刊文春のスクープです。
2016年、前年の大賞受賞をめぐって、大手芸能プロダクションから受賞グループの所属事務所に対し、約1億円が請求されていたとする請求書の写しを文春が報じました。
その名目は「年末のプロモーション業務委託費」だったとされています。
報道の真偽そのものは、今も断定できません。
ただ「大賞がカネで動くかもしれない」という長年の疑念に、物証らしきものが示された衝撃は大きく、この報道以降レコ大を見る世間の目は明らかに変わりました。
さらに2024年の新人賞では、審査で4組と決まった後に規約が変更されて「5枠目」が突然増えたと、これも文春が報じています。
火種は、いまだにくすぶり続けているわけです。
作曲家の目に映る「エンタメ性>音楽性」の正体
「売れてナンボ」は、悪ではない
ここまで読むと、「やっぱりレコ大なんて茶番だ」と言いたくなるかもしれません。
学生時代に一緒に音楽を作っていた私の友人も、テレビで売り出し中のアーティストを見るたびに「あんなの音楽じゃない」と吐き捨てていました。
でも、作曲を仕事にしてきた立場から言わせてください。
音楽産業は企業活動であり、売れてナンボの世界です。
レコード会社も事務所もテレビ局も、商品を売るためにあらゆる仕掛けを打つのであって、それ自体はどの業界でも同じこと。
責められる筋合いのものではありません。
問題はむしろ、受け取る側の思い込みにあります。
「歌姫」「奇跡のハーモニー」といった宣伝文句を浴び続けるうちに、「売れている=音楽的に優れている」という図式が頭の中にできあがってしまう。
売れていることと音楽的に優れていることは、重なる場合もあればまったく別の場合もあります。
この2つを切り分けて眺められるようになると、音楽シーンは一気に見通しがよくなりますよ。
日本のヒット曲は「音楽をモチーフにしたエンターテインメント」
切り分けた先で、私は日本のヒットミュージックをこう定義しています。
「音楽をモチーフにしたエンターテインメント」。
曲そのものが主役なのではなく、曲を素材にした大きな見世物の全体が商品だ、という意味です。
こう捉え直すと、レコ大は急に面白くなります。
どの事務所がどんな戦略で仕掛けたのか、プロデューサーはどんな物語をアーティストに背負わせたのか。
オーディション番組から生まれたスターが、メディア露出の設計によって「実力派」のイメージをまとっていく過程なんて、下手なドラマより見応えがあります。
実はこれ、作り手の内側でも同じなんです。
私自身、曲を書くときはまず「このシーンをどう彩るか」という演出から考え、その演出を音で実現するのが作曲だと捉えています。
音楽とエンターテインメントは敵同士ではなく、最初から地続きのもの。
だからこそ賞の看板には「どちらを評価する賞なのか」を正直に書いておいてほしい、というのが作り手としての本音です。
それでも、音楽は賞の外でちゃんと生きている
では今のレコ大に意味はないのかというと、そうも言い切れません。
直近の2025年はMrs. GREEN APPLEが「ダーリン」で大賞を受賞し、浜崎あゆみさん、EXILEに続く史上3組目、バンドとしては初となる3連覇を達成しました。
ストリーミング再生でもカラオケでも年間トップ級の曲ですから、「大衆の強い支持」という基準に照らせば文句のつけようがない結果です。
一方で、賞とは無関係の場所でも音楽は毎日評価され続けています。
配信チャートは日々更新され、優れた楽曲は国境を越えて勝手に聴かれていく時代になりました。
「記者が選ぶ年に一度の賞」の重みが相対的に下がっていくのは、むしろ健全なことかもしれません。
それでも、音楽の中身そのものを専門家が評価する賞が日本にあまりに少ない現状は、やっぱり寂しいと私は感じています。
和声の工夫、アレンジの冴え、録音の美しさ。そこに光を当てる仕組みが育てば、作り手たちはもっと報われるはずです。
まとめ:今年は「何の勝負」として見るか
日本レコード大賞は、音楽性だけを競う賞ではありません。
公式の基準に「企画性」や「大衆の強い支持」が明記され、審査するのは音楽家ではなく記者たち。
60年の歴史に刻まれた事件の数々も、この構造から生まれてきました。
だから今年の放送は、「いちばんいい曲」ではなく「いちばん大きなエンターテインメントを成立させた陣営」が決まる勝負として眺めてみてください。
それだけで見える景色が変わり、発表の瞬間が倍くらい面白くなるはずです。
最後にひとつだけ。
私の記憶に強く残っているのは、2001年に浜崎あゆみさんが「Dearest」で大賞を受賞したときの涙です。
あれは音楽への涙だったのか、それとも巨大なエンターテインメントの頂点に立った涙だったのか。
年末が来るたび、私はいまだにその答えを考えています。
