
砲弾が飛び交う戦時下のウィーンで、それでも作曲を続けていた男がいます。
それは、もちろん皆さんの知っているベートーヴェンです。
私も、最も好きな作曲家を一人選べと言われたら、ベートーヴェンを選ぶかもしれません。
彼の代表作には、一人の英雄をめぐる物語が刻み込まれた二つの作品があります。
その英雄に大きな期待を寄せ、やがて失望し、さらに数年後にはその軍隊によって自分の暮らす街まで砲撃される――少し出来すぎなくらい劇的な物語です。
その英雄こそ、ナポレオン・ボナパルトでした。
ベートーヴェンは若きナポレオンに強い期待を寄せていました。
ところがナポレオンが皇帝となったと知ったとき、その期待は大きな失望へと変わります。
それだけでは終わりません。
数年後、今度はナポレオン軍がベートーヴェンの暮らすウィーンに大砲を撃ち込みます。
ベートーヴェンは弟の住居の地下室へ避難し、厚い枕で耳を覆って砲声をしのいだと伝えられています。
そして皮肉なことに、その戦争をまたぐ時期に彼が書き進めていたのが、後に《皇帝》と呼ばれることになる作品でした。
目次
まず整理したい、二つのまったく別の作品

ここで最初にはっきりさせておきたいことがあります。
この物語に登場する《英雄》と《皇帝》は、同じ曲ではありません。
一つ目は、
《交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄(エロイカ)」》
です。
こちらは、ベートーヴェンがナポレオンと直接結びつけていた作品です。
ナポレオンが皇帝となったことに失望したベートーヴェンが、楽譜にあった「Bonaparte」の名を激しく消したことで有名になりました。
そしてもう一つが、
《ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」》
です。
こちらはナポレオン軍がウィーンへ侵攻した1809年をまたいで作曲された作品で、「皇帝」という愛称はベートーヴェン自身が付けたものではありません。
つまり、
ナポレオンへの期待が刻まれた《英雄》
と、
ナポレオン戦争の影の中で生まれた《皇帝》
という、まったく性格の異なる二つの作品がこの物語には登場するのです。
まずは、《英雄》から見ていきましょう。
《英雄》前夜――なぜベートーヴェンはナポレオンに期待したのか
18世紀末のヨーロッパでは、フランス革命によって、それまで当然とされてきた王侯貴族中心の社会秩序が大きく揺らいでいました。
そんな時代に頭角を現したのが、若きナポレオン・ボナパルトです。
ただし、ナポレオンを「貧しい平民から実力だけで成り上がった人物」と説明するのは正確ではありません。
彼の家はコルシカ島の小貴族でした。
とはいえ、ヨーロッパを代々支配してきた大貴族の家に生まれ、その地位をそのまま受け継いだ人物でもありません。
フランス革命という激動の時代の中で、軍事的才能によって異例の速さで出世し、ついには国家を動かす位置まで駆け上がった人物でした。
ベートーヴェンは、そんなナポレオンに新しい時代の可能性を見ていたと考えられています。

単なる「戦争に強い将軍」としてではありません。
古い身分秩序に代わり、能力によって人間が評価される新しい社会を体現する人物として、ナポレオンを見ていたのです。
ベートーヴェン自身もまた、貴族の家に生まれたから名声を得た人間ではありません。
音楽家としての才能によってヨーロッパ最高峰の芸術家へとのし上がった人物です。
そのため、ナポレオンの急速な躍進に共鳴する部分があったとしても不思議ではありません。
さらにナポレオンは、革命後の混乱が続くフランスに一定の秩序をもたらした人物でもありました。
ベートーヴェンはそこに、フランス革命の理念を現実の社会へ移していく英雄の姿を見ていたのでしょう。
そして、その期待は一つの交響曲へと結びついていきます。
後の《交響曲第3番「英雄」》です。
ナポレオンが皇帝になった瞬間、何が変わったのか
ところが1804年、ナポレオンはフランス皇帝となります。
ここで重要なのは、「ベートーヴェンは皇帝という単語が嫌いだった」という単純な話ではないことです。
ベートーヴェンがナポレオンに見ていたのは、古い王侯貴族の世界を乗り越える、新時代の政治家でした。
ところが、その人物が自ら皇帝となり、権力を一身に集める方向へ進んでいった。
それは、ベートーヴェンがナポレオンに託していた理想とは大きく食い違うものでした。
弟子のフェルディナント・リースが後年残した回想によると、ナポレオンが皇帝になったことを聞いたベートーヴェンは失望し激怒したといいます。
その言葉は、
「これでは彼も人間の権利を踏みにじり、自分の野心だけを満たす暴君になるだろう」
という趣旨のものでした。
もちろん、リースがこれを書き残したのは出来事から何十年も後です。
細かな言い回しまでそのまま再現された会話だったと断定することはできません。
しかし、ベートーヴェンがナポレオンの皇帝即位を大きな失望として受け止めたこと自体は、ほかの史料とも整合します。
そして、その感情を物語る非常に有名な痕跡が今も残っています。
紙に穴が開くほど消された「Bonaparte」
《交響曲第3番》の現存する筆写譜の表紙には、もともと「Bonaparte」と書かれていた部分があります。
そして、その文字は、ただ線を一本引いて訂正した、という程度ではなく、穴が開くほど強く抹消した跡が残るほど激しく消されています。
このため、「ベートーヴェンはナポレオンが皇帝になったことに激怒し、その名を消した」という有名な逸話には、実物の資料による裏付けがあります。

一方で、「怒ったベートーヴェンが楽譜の表紙を真っ二つに引き裂いた」という話まで事実として断定するのは危険です。
リースはそのような劇的な場面を回想していますが、現存する資料そのものが真っ二つになっているわけではありません。
しかし、紙に穴が開くほど激しく名前を消した跡だけでも、十分に印象的ではないでしょうか。
想像してみてください。
尊敬していた人物の名前を、紙に穴が開くほど消していく、、、ナポレオンへの期待が、どれほど大きな失望へ変わったのかを象徴するような痕跡です。
そして作品は、最終的に《英雄交響曲》として世に出ます。
出版時には、
「ある偉大な人物の記憶を讃えるために作曲された英雄交響曲」
という趣旨の言葉が添えられました。
ここで注意したいのは、この「偉大な人物」が、そのまま「死んだナポレオン」を意味するとは断定できないことです。
ナポレオンはもちろんまだ生きていましたし、「偉大な人物」が具体的に誰を指すのかについては研究上も議論があります。
重要なのは、
「Bonaparte」という具体的な人物名が消え、より普遍的な「英雄」へと変わった
ということです。
そして5年後、ナポレオン軍がウィーンへやってくる
《英雄》の物語から約5年後、歴史はさらに皮肉な方向へ動きます。
1809年、オーストリアとフランスは再び戦争状態に入りました。
ナポレオン軍はオーストリアへ侵攻し、5月には首都ウィーンへ迫ります。
そして5月11日から12日にかけて、フランス軍はウィーンを砲撃しました。
街には砲声が響き、砲弾が撃ち込まれます。
そのウィーンに、ベートーヴェンがいました。
ここで、「ベートーヴェンはウィーン留学中だった」と説明されることがありますが、これは少し違います。
ベートーヴェンが故郷ボンからウィーンへ移ったのは1792年、当初は勉強を目的とする滞在でしたが、そのままウィーンに定住しました。
1809年の砲撃時には、すでに17年近くこの街を音楽活動の拠点としていたので、ウィーンは、ベートーヴェンにとって事実上の第二の故郷になっていたのです。
その街が、かつて自分が新時代の英雄として期待していたナポレオンの軍隊によって砲撃されました。
地下室で、枕を耳に押し当てたベートーヴェン
1809年の砲撃時、ベートーヴェンは弟カスパールの住居へ避難していました。
そこで地下室に入り、厚い枕を耳や頭に押し当て、砲声を遮ろうとしたと伝えられています。
これには、ベートーヴェン特有の事情がありました。
すでに彼の難聴はかなり進行していたのです。

さらに、単に音が聞こえにくいだけではなく、大きな音を非常につらく感じる聴覚過敏の症状もあったと考えられています。
実際、ベートーヴェンは以前から、大きな音が耐え難いという趣旨のことを書き残していました。
そんな人物のすぐ近くで、大砲が何度も鳴り響いたのです。
砲撃そのものへの恐怖に加え、残された聴覚への影響も気がかりだったでしょう。
ただし、「ナポレオンがベートーヴェンを殺そうとした」という意味ではありません。
もちろんナポレオン軍がベートーヴェン個人を標的にしたわけではありませんし、ベートーヴェンのすぐ横に砲弾が落ちて九死に一生を得たという確実な記録もありません。
正確には、ナポレオン軍によるウィーン砲撃に巻き込まれ、地下室への避難を余儀なくされたということです。
それでも、かつて理想を託した人物の軍隊によって、自分の暮らす街が砲撃されるという経験は、十分すぎるほど皮肉です。
その戦争をまたいで作られていたのが、後の《皇帝》
そして、この話にはもう一つ驚くべき偶然があります。
当時ベートーヴェンが作曲していたのが、
《ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73》
でした。
後に「皇帝」と呼ばれることになる作品です。
厳密には、この作品は1809年だけで一気に書かれたわけではありません。
1808年ごろから作曲が始まり、1809年のウィーン侵攻と占領をまたいで書き進められ、1810年に完成しています。
つまり、《皇帝》はまさにナポレオン戦争のただ中を通過しながら生まれた作品なのです。
そして、その影響が単なる偶然の時代背景ではなかったことを示す、非常に興味深い痕跡があります。
《皇帝》の自筆譜にも「Napoleon」の文字が残っている
《ピアノ協奏曲第5番》の自筆譜には、ベートーヴェン自身による興味深い書き込みがあります。
第2楽章付近の余白に、「オーストリアはナポレオンに報復するだろう」という趣旨の言葉が記されているのです。
つまり、後に《皇帝》と呼ばれる作品の紙面そのものに、ベートーヴェン自身の手によって「Napoleon」の名が刻まれていることになります。
これは非常に面白い対比です。
《英雄》では、
「Bonaparte」という名前を紙に穴が開くほど消した。
その数年後、《ピアノ協奏曲第5番》では、
戦争のさなかに再び「Napoleon」という名前を書き残した。
ただし今度は、憧れの対象としてではありません。
そこには、戦争に翻弄されるオーストリア側から見たナポレオンへの感情がにじんでいます。
この二つの楽譜に残された「Napoleon」という文字を比べるだけでも、ベートーヴェンとナポレオンの関係がどれほど変化したのかが見えてきます。
それなのに、なぜ《皇帝》と呼ばれるのか
ここまで読むと、「では《皇帝》という題名はナポレオンを意味しているのでは?」と思いたくなります。
しかし、そうではありません。
そもそも「皇帝」という愛称を付けたのは、ベートーヴェン本人ではありません。
ベートーヴェンはこの曲をナポレオンに献呈したわけでもありません。
献呈相手は、彼の弟子であり重要な支援者でもあったオーストリアのルドルフ大公です。
つまり、
《皇帝》=ナポレオンをたたえる曲
ではありません。
「Emperor」という愛称が誰によって、いつ決定的に付けられたのかについては、はっきりしていません。
英国のピアニスト兼出版者ヨハン・バプティスト・クラーマーに由来するという説もありますが、確定しているわけではありません。
曲の壮大さ、華やかさ、堂々とした響きから、「皇帝」という呼び名が広く定着していったと考えられています。
「皇帝になったナポレオン」に失望した男の曲が《皇帝》になった
こうして時系列を並べると、この物語の皮肉がよく分かります。
1804年
ナポレオンが皇帝となる。
ベートーヴェンは失望し、《交響曲第3番》から「Bonaparte」の名を激しく消す。
↓
1805年
ナポレオン軍がウィーンを占領。
↓
1809年
ナポレオン軍が再びウィーンへ侵攻し、市街を砲撃。
ベートーヴェンは地下室へ避難し、厚い枕で耳を覆う。
↓
その戦争をまたいで、
《ピアノ協奏曲第5番》
を作曲。
↓
後世、その曲が、
《皇帝》
と呼ばれるようになる。
ベートーヴェンがナポレオンに失望する大きなきっかけになったのが「皇帝」という地位だったのに、その戦争のただ中で作った作品が、本人の意図とは無関係に《皇帝》という名前で呼ばれるようになったのです。
歴史のいたずら、と言いたくなるような巡り合わせです。
《英雄》と《皇帝》を並べると、ナポレオンへの感情の変化が見えてくる
ベートーヴェンとナポレオンの関係を一言で表せば、
新時代の英雄として期待した人物が皇帝となったことで失望し、その数年後にはその人物の軍隊によって自分の暮らす街まで砲撃された
ということになります。
ただし、ベートーヴェンのナポレオン観が生涯ずっと同じだったわけではありません。
後年には再びナポレオンの偉大さを評価するような発言もあり、その感情は単純な「好き」から「嫌い」への一直線の変化ではなかったようです。
それでも、1804年の《英雄》と1809年前後の《皇帝》を並べてみると、一人の作曲家がヨーロッパ史の巨大なうねりに巻き込まれていく様子が、驚くほど鮮明に浮かび上がります。
《英雄》では、期待していた人物の名前を紙に穴が開くほど消した。
その数年後には、その人物の軍隊による砲撃を地下室で耐えた。
そして、その時代に書き進めていた曲が、本人の死後も世界中で演奏され、
《皇帝》
という名前で知られるようになりました。
音楽だけを聴けば、《英雄》も《皇帝》も堂々として、力強く、圧倒的な生命力に満ちています。
しかし、その背景にはベートーヴェン自身が体験した革命、政治への期待、失望、戦争、難聴、そして砲撃下のウィーンがありました。
そんな背景を知ったうえで二つの作品を聴いてみると、単なる「有名なクラシック曲」ではなく、一人の人間が激動の時代を生き抜いた記録のようにも聞こえてくるのではないでしょうか。
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