ロックは、将来的にクラシックのような、研究・学問される「古典」になるかもしれません。
そんなバカな!と言われそうですが、ロックはすでに大学で研究されています。
音楽史を400年ほどさかのぼると、その先にも面白い未来が待っている気がするんです。
新しい音楽が生まれ、保守派に叩かれ、バトルに勝って生き残り、やがて誰も批判できないほど研究され、最後は大学の講義になる。

この流れを、音楽史は何度もくり返してきました。
その最初の、そしていちばん派手な実例から見ていきましょう。
舞台は1600年のイタリアです。
400年前のイタリアで起きた「音楽史上最大の炎上事件」
きっかけは、一冊の批判本でした
1600年、ボローニャの音楽理論家アルトゥージが『アルトゥージ、あるいは当代の音楽の不完全さについて』という本を出版し、その中でモンテヴェルディのマドリガーレに現れる、従来の対位法のルールから外れた不協和音の使い方を厳しく批判しました。
しかもアルトゥージがやり玉に挙げた曲は、まだ出版すらされていませんでした。
対位法というのは、複数のメロディを同時に美しく重ねるための厳格なルール集のことで、当時の音楽家にとっては絶対の掟のようなものです。
演奏の場で耳にした他人の未発表曲を、楽譜の問題箇所だけ抜き出して「ここがルール違反だ」と公開で論じたわけです。
現代でいえば、発売前の新曲を切り抜いてネットで晒す行為に近いものがあって、私はこの事件が西洋音楽史でいちばん生々しい場面だと思っています。
400年前の人間も、やることは今とあまり変わらないんですよね。
モンテヴェルディの反撃「第二の作法」

黙っていなかったのがモンテヴェルディです。
彼は1605年、自分の『マドリガーレ集第五巻』の冒頭に「勤勉な読者へ」という短い文章を載せ、そこで「第二の作法(セコンダ・プラティカ)」という言葉を掲げて反論しました。
響きの美しさを守るためにルールを優先する従来のやり方が「第一の作法」なら、自分がやっているのは、歌詞の感情表現のためならルールを破ってもいい「第二の作法」なのだ、という宣言です。
つまり彼は「ルール違反じゃない、新しいルールだ」と言い切ったわけです。
不協和音は気まぐれではなく、歌詞の痛みや嘆きを音にするための、計算された武器でした。
この「歌詞が示す情感の表現を、厳格対位法のルールより優先させる」という考え方は、のちにバロック音楽全体の基本理念を象徴する言葉として受け止められるようになります。
このケンカが、オペラへの扉を開けました

当時の主流だったポリフォニー音楽は、4つの声部すべてが平等にメロディを歌う音楽です。
たしかに響きは天国のように美しいのですが、全員が別々のタイミングで歌詞を歌うので、リスナーはどの言葉を追えばいいのか分からなくなります。
これでは、物語や感情をダイレクトに届けることができません。
そこで主役をひとりに任せ、残りを伴奏に回す「モノディ」というスタイルが台頭してきます。
歌詞の世界がまっすぐ伝わるようになったことで、西洋音楽は「音楽で感情を語る」という武器を、さらに強力なものへと進化させました。
この大きな変革の流れの中で生まれたモンテヴェルディの《オルフェオ》(1607年)は、初期オペラを代表する傑作として、いまも演奏されています。
保守派との大バトルに勝って生き残った新様式が、次の時代の主流になる。音楽史の法則の、これが第1号なんです。
ジャズ:「不良の音楽」が大学の学位になるまで
全米初のジャズ学位は、「ジャズ」と名乗れませんでした

時代を一気に飛んで20世紀。ジャズは生まれた当初、まともな大人が聴く音楽とは見なされず、批判の的になっていました。
ところが1947年、ノーステキサス州立カレッジ(現・ノーステキサス大学)が、全米で初めてジャズの学位プログラムを開設します。
モンテヴェルディの時代から約350年後、「叩かれた音楽」がついに大学の正式な学問になった瞬間です。
ただし、ここに最高に味わい深い裏話があります。
この学位は当初「ジャズ」ではなく「ダンスバンド専攻」という名前で呼ばれていました。
ジャズという言葉の持つ、好ましくないイメージを避けるためです。
全米初のジャズ学位がジャズと名乗れなかったという事実に、当時の肩身の狭さが全部詰まっている気がして、私はこの話が大好きなんです。
権威は最後まで抵抗し、そして陥落します
大学に入ったあとも、戦いは続きました。
アメリカ音楽の最高権威とされるピュリッツァー賞音楽部門では、1943年の創設以来、受賞作はすべて西洋クラシックの系譜にある作品で占められ、1965年にはジャズの巨人デューク・エリントンへの特別賞が、審査員の推薦にもかかわらず理事会に却下されるという事件まで起きています。
学問の世界に入ってもなお、「最高峰」への扉は閉ざされていたわけです。
その扉が開いたのは1997年。ウィントン・マルサリスの大作《ブラッド・オン・ザ・フィールズ》が、ジャズ作品として、そして非クラシック作品として史上初のピュリッツァー賞を受賞しました。
エリントン拒否事件から32年。ジャズの誕生からなら、ざっと一世紀がかりの陥落劇です。批判され、学問になり、最後は権威そのものに認めさせる。
この道のりの長さこそが、次のロックの話の物差しになります。
では、ロックはいま坂道のどこにいるのか
エルヴィスの腰は、テレビに映してもらえませんでした

ロックの根っこにあるのは社会への反骨です。
そして保守派との「実際のバトル」の記録も、モンテヴェルディの時代に負けないくらい生々しく残っています。
1956年9月9日、21歳のエルヴィス・プレスリーが人気番組「エド・サリヴァン・ショー」に初出演すると、約6000万人、当時のテレビ視聴者の8割以上が画面に釘付けになりました。
国民的な熱狂と言っていい数字ですよね。
ところがその腰を振るパフォーマンスが「若者を堕落させる」と問題視され、番組には数千件の抗議が殺到します。
その結果、1957年1月6日の3回目の出演では、エルヴィスは上半身しかカメラに映してもらえませんでした。
国民的スターの腰から下を、テレビ局が放送できなかったわけです。
未発表曲の楽譜を晒されたモンテヴェルディと、腰を電波から消されたエルヴィス。
時代も国も違うのに、新しい音楽への拒絶反応はここまで似るのかと驚かされます。
批判の急先鋒は、ひと世代前のアイドルでした
さらに面白いのは、誰がロックを叩いたかです。
1957年、当時の音楽界の頂点にいたフランク・シナトラは雑誌への寄稿で、ロックンロールを「これまで聴いた中で最も野蛮で醜く、退廃的で悪質な表現形式」と切り捨て、その歌い手たちを白痴同然の愚か者呼ばわりしました。
大御所によるほぼ全否定の公開批判で、これに対してエルヴィスが記者会見を開いて反論するという、アルトゥージ論争そっくりの応酬まで起きています。
ここで思い出してほしいのが、シナトラ自身の過去です。
彼はひと世代前、「ボビーソクサー」と呼ばれる若い女性ファンたちを熱狂させたスターでした。
つまり、かつて大人たちを眉をひそめさせた側の人間が、次の新しい音楽を叩く側に回ったんです。
パレストリーナ様式という「正しい音楽」を守ろうとしたアルトゥージと同じで、批判する側はいつも、ひとつ前の革命の勝者なんですよね。
研究の「箱」は、もう完成しています

では批判のその先、学問化はどこまで進んだのか。
実は制度の面では、想像以上に話が進んでいます。
1981年には「国際ポピュラー音楽学会(IASPM)」が設立され、ポピュラー音楽を学術的に研究する国際学会として、世界数十か国の研究者を束ねる組織に成長しました。
ロックを含むポピュラー音楽が、国際学会を持つ正式な研究分野になったということです。
続く1988年には、ビートルズの故郷リバプールの大学に、世界初のポピュラー音楽研究の専門機関「ポピュラー音楽研究所(IPM)」が誕生します。
発足当時は音楽学部の階段下の小部屋に、たった2人のスタッフで始まったというのですから、ジャズが「ダンスバンド専攻」と名乗って肩身を狭くしていた話と重なります。
そしてこの小さな研究所は、2002年からIASPMの公式アーカイブを預かるまでになりました。
ビートルズを生んだ街は、研究の面でも先頭を走ります。
リバプール・ホープ大学は2009年、「ビートルズ、ポピュラー音楽と社会」という修士課程を開設し、2011年1月には世界初の「ビートルズ学修士」が誕生しました。
開設時に担当教員が語った理由がふるっていて、ビートルズに関する本は8000冊以上もあるのに、ビートルズを専門的に研究する修士課程はなかったというのです。
腰を隠された音楽が、半世紀ほどで学会と研究所と修士号を手に入れました。
坂道はもう、かなり上のほうまで登っています。
ノーベル賞とピュリッツァー賞も、すでに扉を開けました
権威の側の陥落も始まっています。
2016年にはボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、ロックの歌詞が「文学」として世界最高の権威に認められました。
1957年に腰を放送してもらえなかった音楽の後継者が、60年後には人類の文学の殿堂に迎えられたと考えると、この変化の大きさが分かりますよね。
さらに2018年には、ラッパーのケンドリック・ラマーのアルバム『DAMN.』がピュリッツァー賞音楽部門を受賞します。
クラシックでもジャズでもないジャンルの作品が選ばれたのは、賞の歴史で初めてのことでした。
マルサリスの受賞からわずか21年で、権威の扉はロックを飛び越えてヒップホップまで開いたことになります。
ジャズが一世紀かけて登った坂を、あとに続くジャンルはどんどん速く駆け上がっているんです。
それでも「バイブル」への道が遠い理由

ジャズとロックの誕生は数十年しか違わないのに、学問化のスピードには差がありました。
ジャズはリズムもコード進行も生まれた時点ですでに複雑で、研究対象としての密度が最初から高かった。
一方のロックは圧倒的にシンプルで、その分かりやすさこそが若者を熱狂させた武器でもあった、というのが作曲家としての私の見方です。
もうひとつ、ロックには固有のジレンマがあります。
反骨を本質とする音楽が、権威である学問になってしまっていいのか、という矛盾です。
ロック好きなら「教科書に載った瞬間、ロックはロックでなくなる」と言いたくなるはずで、その気持ちはよく分かります。
ただ、学問になるというのは、反骨が消えることではありません。
研究者が問うのは「なぜエルヴィスの腰ひとつが国を揺るがす騒動になったのか」「なぜシナトラほどの大物が全力で潰しにかかったのか」という、熱狂と反発の正体そのものです。
つまり反骨は失われるのではなく、研究テーマとして永久保存されるわけです。
ジャズだって生まれたときは反骨の音楽でしたが、学位になり、ピュリッツァー賞を獲ったいまも、その反骨の歴史ごと研究され続けています。
ミクスチャーのように電子音楽と結びついた複雑な進化も進んでいますし、あと20〜30年、ロックがクラシックのような「古典」として、さらに大きな地位を築く姿は十分に想像できます。
100年後の音楽室を想像してみる
ボカロは、もう教室に入り込んでいます

音楽のジャンルはすでに出尽くした、とよく言われます。
それでもジャンル同士の結びつきからは、新しいスタイルがいまも生まれ続けていて、その代表が日本のボカロでしょう。
そして驚くべきことに、こちらは批判される段階をすっ飛ばして、すでに教室へ入り始めています。
ヤマハは歌声合成技術ボーカロイドを小・中学校の音楽教育向けに応用した「ボーカロイド教育版」というデジタル教材を発売し、楽譜が読めない子どもでも曲作りを学べる授業用ツールとして学校への提供を進めました。
100年後の音楽室の壁に、バッハやベートーヴェンの肖像画と並んで「〇〇P」の肖像が飾られる。
そんな未来を私は半分冗談、半分本気で想像しています。歴史の法則どおりなら、笑い話では済まないかもしれません。
作曲家として、この法則の先に見えるもの
私は専門学校で、和声学を学ぶ学生たちに作曲を教えています。
その教壇から見ると、和声学の教科書に並ぶ「禁則」の数々は、かつて生きた音楽の現場で戦わされた議論の化石のようなものなんです。
モンテヴェルディが破った掟も、ジャズが持ち込んだ響きも、時間が経てば整理され、ルールとして教科書に収まっていく。
学問になるとは、熱狂が知の形で保存されることだと言ってもいいでしょう。
ロックもすでに、その棚に加わり始めています。
そして100年もすれば、クラシックのようなバイブルの地位にたどり着いているかもしれません。
音楽は進化し続ける。これが、音楽史を眺めていて本当にワクワクするところなんです。
